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481 ブルーグラス・ダイアリー 3月編(その2)

3月4日

ジョン・ダフィー誕生(John Humbird Duffey, Jr./1934年)

481 ブルーグラス・ダイアリー 3月編(その2)_a0038167_08295326.jpgダフィーはワシントンD.C.からポトマック川を西に渡ったところに位置するヴァージニア州アーリントンに生まれ、生涯のほとんどをここで過ごしました。

彼の父親はメトロポリタン・オペラの合唱団でしばらく演奏したことのあるプロのテナー歌手でした。ダフィーは父親から呼吸法とヴォーカル・テクニックを学び、テナーを歌うようになります。

高校に通っていた頃、ダフィーはアパラチアから首都圏へ移り住んだ人々の音楽に触れ興味を持ち始めました。やがてビル・モンローやスタンレー・ブラザーズの影響を受けブルーグラス音楽にのめり込んで行きます。

彼はすぐに得意のテナーを活かし、マンドリンやドブロを習得すると、高校卒業後にいくつかのアマチュアおよびセミプロのグループで演奏および録音を行うようになりました。

https://www.youtube.com/watch?v=SvhZoXIa8hY/

しかしまだ彼の主な収入は機器修理工やトラック運転手としてのものでした。

その頃、近くに住むビル・エマーソンもブルーグラスに没頭し、バンジョー奏者としてプロのバンドを渡り歩いていました。彼は、ダフィーが毎週のように80キロも車を走らせてセミプロ・バンドでマンドリンを弾き、テナーを歌っていることを知っていました。

1957年7月のある日、エマーソンが当時在籍していたバズ・バズビーのバンドのメンバー数名が大きな自動車事故の遭遇し負傷してしまいます。ダフィーはそれを機に残りのメンバーと共に仮のバンドを編成しました。そこにはギターとヴォーカルのチャーリー・ウォーラーがいました。

481 ブルーグラス・ダイアリー 3月編(その2)_a0038167_08302334.pngやがて彼らは「カントリー・ジェントルメン」と名乗り、他のバンドよりもより速く演奏し、より甲高く歌い、派手なパフォーマンスを披露するようになります。すると彼らのステージに人気が集まり始め、ダフィーは翌1958年にそれまでの職を辞めてプロとしてブルーグラスをプレイすることを決断しました。

https://www.youtube.com/watch?v=iaqpR8_1-Zs/

481 ブルーグラス・ダイアリー 3月編(その2)_a0038167_08305556.jpgさらに詳しいことを知りたい方には、洋書『ジョン・ダフィーのブルーグラス人生』(John Duffey's Bluegrass Life)をお薦め致します。


# by scoop8739 | 2020-03-04 08:31 | Who's Who