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328 「ニューグラス」への道(その45)

ブルーグラス来るべきもの

ジャズの世界に「ジャズ来るべきもの」(The Shape of Jazz to Come)という有名なアルバムがあります。これは1959年にジャズ・サックス奏者のオーネット・コールマンがアトランティック・レコードに移籍して発表したアルバムで、後に「フリー・ジャズ」と呼ばれる新しい音楽の雛形となった作品でした。

a0038167_09110869.jpgさて1970年代後半、アメリカ西海岸でスウィング・ジャズがリバイバルする以前に、ジャズとブルーグラスの融合を模索していたデビッド・グリスマンは、アコゥスティック弦楽器で独特なドライヴ感とスウィング感を紡ぎ出す「ドーグ・ミュージック」(Dawg Music)という音楽スタイルを生み出します。

グリスマンがジャズ界からステファン・グラッペリやエディ・ゴメスらを招き入れたことなどから、ブルーグラス・ファンもジャンゴ・ラインハルトらを知る切っかけともなり、ブルーグラス・ミュージックは多種多様でファジーな様相を呈していきます。

a0038167_09111910.jpgサム・ブッシュはニュー・グラス・リバイヴァル(NGR)をメジャーに乗せるべく、ベラ・フレック、ジョン・コーワン、パット・フリンという当時の凄腕プレイヤーを傭した強力な布陣でインパクトのあるグラス・ロックを展開します。

バンジョー奏者のトニー・トシリシュカは、ゴードン・ライトフットのナンバーをよく歌いフォーク路線へと進みました。NGRのベラ・フレックは、当時のナッシュビルを表現する「ナッシュビル・ブルーグラス・バンド」を発足させます。

1980年代になるとニューグラス傾向の反動で、ブルーグラスの原点回帰を図る動きが出てきてます。そして更なる発展へと向かう時期となったのです。

この時期、無数のトラッド・バンドが誕生しています。「ジョンソン・マウンテン・バンド」が人気を博し、ニュー・トラッド・バンドではトニー・トリシュカの「スカイライン」、ティム・オブライエンの「ホット・ライズ」などが注目されました。

1980年代中期、リッキー・スキャッグスのカントリーへの接近、サム・ブッシュのブルーグラス・ロック、トニー・ライスのヴォーカルへの再挑戦なども起こりました。

そして1980年代後半、遂にCD時代の到来となるやブルーグラス音源は一段と活気づき、プレイヤーによるアコースティック・カントリーのセッションも盛んに行われるようになりました。

この先もブルーグラス・ミュージックは時代の先端を走る音楽と交わりながら離合と拡散を繰り返します。そしてこのジャンルが続く限り、さらなる進化と発展を続けることでしょう。

(「ニューグラスへの道」おわり)
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by scoop8739 | 2018-10-26 09:17 | Road To New Grass

327 「ニューグラス」への道(その44)

進化するブルーグラス

1973年の冬、ロック・バンド、グレイトフル・デッドのリーダー、ジェリー・ガルシアは自らの音楽ルーツであるブルーグラス・ミュージックを演奏するために、「ミュールスキナー」の主要メンバーに声をかけ新しく「オールド・アンド・ザ・ウェイ」と呼ばれるバンドを立ち上げます。

このバンドには、バンジョーとヴォーカルにガルシア、マンドリンとヴォーカルにデヴィッド・グリスマン、ギターとヴォーカルにピーター・ローワン、フィドルにリチャード・グリーン、そしてベースにジョン・カーンが参加しました。

しかしリチャード・グリーンはロサンゼルスで自分のバンドを立ち上げるため数ヶ月後に脱退します。代わりのフィドルにはジョン・ハートフォードが起用されましたが、契約の問題によって最終的にヴァッサー・クレメンツに落ち着きました。

a0038167_09125408.jpgバンドは伝統的なブルーグラスからの脱却とロックへの傾倒をテーマとして、ローリング・ストーンズの「野生の馬」や、ジェファーソン・エアプレインのジャック・ボーナス作「ホーボー・ソング」、ピーター・ローワン作「パナマ・レッド」、「ミッドナイト・ムーンライト」といった一風変わったブルーグラスを演奏します。彼らのデビュー・アルバム『オールド・アンド・イン・ザ・ウェイ』は1975年にリリースされ、ブルーグラス・アルバムとしては過去最高の売り上げを記録しました。

1960年代半ばから始まった「ニューグラス」のムーヴメントは、アメリカ西海岸から「カントリー・ガゼット」、同じく東海岸からは「セルダム・シーン」という2大バンドを産み出し、さらに「ニューグラス・リヴァイヴァル」や「J.D.クロウとニュー・サウス」、「ミュールスキナー」、「オールド・アンド・イン・ザ・ウェイ」の出現によって完成され、同時に象徴的な終着点を迎えたとさえ思えました。

しかし進化に終着点はなく、次々と生まれては消えていくバンドやプレイヤーたちがあれば、また新しいスターが生まれてきます。こうしてニューグラスはある種のバンド・スタイルとして演奏され続けていきました。
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by scoop8739 | 2018-10-22 09:15 | Road To New Grass

326 「ニューグラス」への道(その43)

ジーン・パーソンズのアルバム『キンドリング』では彼のマルチ・プレイヤーぶりが聴ける

スキップ・バッティンと同時代、バーズ後期のメンバーだったジーン・パースンズはクラレンス・ホワイトと共にストリング・ベンダーを制作したことでも有名です。彼はクラレンスの誘いでバーズに加入し、1968年10月からドラムを担当していました。

パーソンズは1963 年に、ケイジャン・フィドルの名手ギブ・ギルボーからバンジョーの腕前を認められ、彼のセッションに参加したことからミュージシャンとしての活動をスタートさせています。

1966年から67年にかけては「ケイジャン・ギブ・アンド・ジーン」として活動し、そこでクラレンス・ホワイトと出会います。その後、ウェイン・ムーアを加えて1968年8月までカリフォルニアで活動していたのが伝説のバンド「ナシュヴィル・ウェスト」でした。この頃に前述のストリング・ベンダーの制作を始めていたと言われています。

a0038167_08553288.jpgさてそのパーソンズがソロになって、1973年にはマルチ・プレイヤーの才能を遺憾なく発揮したアルバム『キンドリング』を発表しています。このアルバムで彼はギター、バンジョー、ペダル・スティール、ハーモニカ、ベースと数多くの楽器を演奏しています。

1曲目の「モーメント」(Monument)はパーソンズ作となっているものの、実はブルーグラスの名曲「ピッグ・イン・ザ・ペン」(Pig In A Pen)とほぼ同じ曲です。

なおアルバムには盟友クラレンス・ホワイトが全面協力し、かつてバーズがステージで演奏していたのですが、レコード化されなかった曲なんかが収録されています。つまりこのアルバムで“裏バーズ”的な曲を聴くことが出来るのです。

また、かつての仲間であったギブ・ギルボーがフィドルでの参加や、あのラルフ・スタンレーがコーラスで参加した兄カーター作の「酔っぱらいの夢」(Drunkard’s Dream)が収録されています。この曲でのクラレンスのロック的でロンサム感あふれたヴォーカルは聴きものです。

また「私は木になるべき」(I Must Be A Tree)という曲ではフェイズ・シフターを利用した美しいストリング・ベンダーも楽しめるほか、アルバム全体的にはアコゥスティックでほのぼのとしたサウンドとなっています。

パーソンズはその後、1974年に復活したフライング・ブリトゥ・ブラザーズにギブ・ギルボーやクリス・エスリッジ、スニーキー・ピートらと共に参加しています。
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by scoop8739 | 2018-10-18 08:57 | Road To New Grass

325 「ニューグラス」への道(その42)

スキップ・バッティンのアルバム『トパンガ・スカイラインズ』では貴重なクラレンス・ホワイトの生前最後の演奏が聴ける

後期ザ・バーズのメンバーであり、ニュー・ライダーズ・オブ・ザ・パープル・セイジ(New Riders of the Purple Sage)やフライング・ブリトウ・ブラザーズでも活躍したスキップ・バッティン(Skip Battin)が、ファースト・ソロ・アルバム『スキップ・バッティン』(1972年)に続いてリリースするつもりで制作したものの結局未発表に終わってしまったという幻のセカンド・アルバム『トパンガ・スカイライン』(Topanga Skyline)(1973年)が、約40年の時を経て2010年になってようやくリリースされました。

a0038167_08305072.jpg本来このアルバムにはクラレンス・ホワイトが参加するはずでしたが、レコーディングに入る数日前に酔っ払い運転の日系人女性の車にはねられて非業の死を遂げてしまったのです。アルバム『スキップ・バッティン』ではバッキングで素晴らしいプレイを披露していたクラレンスのギターはこのアルバムでは聴かれないものの、隠しトラックとして彼の生前最後の演奏といわれる貴重なリハーサル音源が収録されています。そのほか、1965年にスキップがソロでテレビ出演した時のレアな映像を収めたビデオ・クリップがボーナスとして収録されています。

a0038167_08310063.jpg余談ですが、アルバムのジャケット画像を見てデジャヴ状態になった方、それはきっとクラレンスのレア音源集『ホワイト・ライトニン』(White Lightnin')を見たことがあるからでしょう。

さて、スキップは1960年前後のドゥワップ時代から活動していたということもあり、彼の音楽にはロックン・ロール、カントリー、ラグタイムといったいろんな要素が混ざった独自のポップ感覚があります。

サポート・メンバーにはカントリー・ガゼットからバイロン・バーライン、アラン・マンデ、ローランド・ホワイトの3人、フライング・ブリットゥズのクリス・エスリッジ、そしてハーブ・ペダーセン、アル・パーキンスらカリフォルニア・カントリー・ロックの名うての面々が参加しています。アルバムの制作は長年の盟友、奇才ミュージシャンでプロデューサーであるキム・フォウリー(Kim Fowley)でした。

得意のラグタイム風の作風、ブルーグラスの粋な解釈など、出来ばえはファースト・アルバムを超えており、カントリー・ロック・ファンには必聴のアルバムとなっています。
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by scoop8739 | 2018-10-15 08:35 | Road To New Grass

324 「ニューグラス」への道(その41)

ニューグラス時代の泡沫バンドと思いきや

ジェシ・コリン・ヤングを中心に、ジェリー・コービット、バナナ(ローウエル・レヴェンジャー3世)らを加え1965年に結成されたヤング・ブラッズは、ラヴィン・スプーンフルとともにフォーク・ロックの代表的なバンドの一つとしてニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジを中心に活躍していました。

a0038167_08404496.jpg彼らはフォーク・ロックのブームが去ると1969年にファミリー・レーベルの「ラクーン」と共にカリフォルニア州内に活動拠点を移します。そしてメンバーのバナナがプロデュースして「ラクーン・レーベル」から7枚目のアルバムとして作られたのが「ハイ・カントリー」というブルーグラス・バンドのアルバムでした。
バンドは伝統的なブルーグラスのクラシックなスタイルに強く影響を受け、あえてニューグラス的な選曲をせず、オーソドックスな作りになっています。

A面1曲目のレッド・アレンでお馴染み「ハロー・シティ・リミッツ」、2曲目のモンロー・ソング「ブルー・ナイト」と続けて聴くとオーセンティックな選曲ながら決してハードにならず、むしろルーズな感じがするのはやはりバナナのプロデュースのせいなのか、それともヴォーカルに由来しているのか、アメリカ西海岸特有の“適度にルーズ”な雰囲気が何とも耳に心地よいサウンドとなっています。

A面4曲目、ジミー・マーチンの「スキップ・ホップ・ウォブル」(Skip, Hop, And Wobble)に彼らの本領が発揮されているようです。

バンドは一時期、ニュー・ライダーズ・オブ・パープル・セイジのデヴィッド・ネルソンも在籍していました。今はマンドリンのブッチ・ウォーラーの一人がオリジナル・メンバーとして残り、最近では9枚目のアルバムをリリースするといった、現在も活動中のとても息の長いグループとなっています。

ところで、前記アルバムのプロデューサーのバナナこと、ローウエル・レヴェンジャー3世自身も、その容貌はさることながら音楽面でも変わった作品を残しています。

バナナはフォーク・リヴァイヴァルの頃からブルーグラスに興味を持ち、東海岸ボストンで早くも1960年代からバンド活動をスタートさせています。そして1970年代にジェシ・コリン・ヤングと出会いヤング・ブラッズの結成に至っています。彼はバンジョー、マンドリン、ギター、ペダル・スティールなどを器用にこなし、フォーク・ブームの落とし子のような存在となりました。

a0038167_08405772.jpgそんな彼が1972年に発表したのが「ミッド・マウンテン・ランチ」というアルバムです。このアルバムはロックあり、ジャズ風あり、カントリーに加えてブルーグラスが数曲収録されています。
最初はチャック・ベリーの曲「バック・イン・ザ・USA」に始まりブルーグラス感は全く感じられないのですが、A面6曲目に突然ビル・モンローの「月光にたたずんで」(Sittin’ Alone In The Moonlight)が収録されています。

続くA面7曲目「霧のロンドン」(In Foggy Old London)、8曲目「太陽が沈む前に」(Before The Sun Goes Down)、さらにB面2曲目「ダイアモンドの海」(Ocean Of Diamond)はともにジミー・マーチンのレパートリーとして有名な曲です。どうもバナナはジミー・マーチンがお好きなようです。なお「ダイアモンドの海」はマンドリン、ペダル・スティール、マンドラで演奏されています。

バナナはヤング・ブラッズを解散後、シンガー・ソングライターのミミ・ファリーニャ(Mimi Fariña)の伴奏を長く務め、主にカントリー・ロックやブルーグラスの範囲でライ・クーダーや、ダン・ヒックスのホット・リックスとのセッションやツアーのミュージシャンとして活動しました。

またニューヨークで活動時代していた頃の仲間であるデヴィッド・グリスマンのセッションにも参加し、自身2014年には「根っから」(Down To The Roots)というブルース・アルバムをリリースしています。
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by scoop8739 | 2018-10-12 08:42 | Road To New Grass

323 「ニューグラス」への道(その40)

J.D.クロウの果敢なる取り組み

1937年8月生まれのジェイムズ・ディー・クロウはスクラッグス・スタイルのバンジョー奏者の中ではもっとも正当な後継者と言われ、ジミー・マーチンのデッカ時代初期のバンジョー奏者としてその名を轟かせていました。彼は1960年代後半に生誕地ケンタッキー州レキシントンに本拠地を移し「ケンタッキー・マウンテン・ボーイズ」といういささか古めかしい名前のバンドを結成し活動を始めます。

a0038167_09551154.jpgこのバンドには左利きのフィドラーのボビー・スローンに、ドイル・ロウソン(マンドリン)、ベテラン・シンガーのレッド・アレン(ギター)が加わり、1968年に「ブルーグラス・ホリデイ」というアルバムを残しています。

彼らは新旧交代の転換期にあったブルーグラス界において最高のオーセンティック・ブルーグラス・バンドの評価を得て、同時にベテラン・ミュージシャンの底力を見せつけ大いに話題となりました。しかし、残念ながらこのアルバムを最後にレッドがバンドを去ります。J.D.はすぐさまカリフォルニア生まれの若手マンドリン奏者ラリー・ライスをバンドに迎え、サウンドおよびレパートリーに一層の強化を図ったのです。

a0038167_09574435.jpgラリーはそれまで西海岸では少しは知られたモダン・ブルーグラスのバンドで演奏しており、ブルーグラスのスタンダード曲に加えて、当時の西海岸で流行していたフライング・ブリトゥ・ブラザーズのカントリー・ロックや、ディラン・ソングなどをレパートリーとします。これによりケンタッキー・マウンテン・ボーイズは演奏スタイルがぐっと新しくなります。ラリーの加入後に作られたアルバム「ランブリング・ボーイ」は変身後のもので、ラリーとレッドの年代的な差がそのまま現れているようです。

1971年になるとJ.D.の片腕的存在だったドイルがカントリー・ジェントルメンに移籍します。このタイミングで兄ラリーの誘いに応じてトニ−・ライスがブルーグラス・アライアンスを抜けバンドに入団してきます。アライアンスで培われたトニーの音楽センスはラリーやJ.D.の意識をも変えていきバンドは益々プログレッシヴな方向へと導かれていきました。

そして1972年夏にJ.D.は気分一新して、バンド名をいかにもニューグラス的な装いを凝らした「ニュー・サウス」と改め、同時に一気にコマーシャルに乗るためオズボーン・ブラザーズに習ってエレクトリック・ブルーグラスにイメージ・チェンジを図ります。

a0038167_09554843.jpgところがこの取り組みは時期尚早だったのか不評を買う結果となってしまいました。この間にレコーディングされたのが『ニュー・サウス』というアルバムでした。アルバムはリリースのタイミングを逃し1977年まで発売されませんでした。また、後にCD化された際にタイトルが『ブルーグラスの進化』(Bluegrass Evolution)と改められています。
バンドは起死回生を図るかのようにレキシントンの「ホリデイ・イン」に籠り、そこで沈黙の1年間を過ごしたのです。

1974年に再びフェスティバルに現れたニュー・サウスは、かつてのケンタッキー・マウンテン・ボーイズ時代の小気味よいモダンなスタイルが鮮やかに復活していました。トニーのギター・ワークも年相応の重みと貫禄が漂い、レスター・フラットに傾倒しているというそのリズム・ギター、クラレンス・ホワイトから得たブルージーなリード・ギターも一層の磨きがかかったものとなっていました。
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by scoop8739 | 2018-10-09 10:04 | Road To New Grass

322 「ニューグラス」への道(その39)

ニューグラスの時代

1972年になると、ジョン・ハートフォードの『モーニング・ビューグル』に始まり、カントリー・ガゼットの『パーティーのならず者』、ニューグラス・リヴァイヴァルの『火の玉ロック』、そしてセルダム・シーンの『アクト1』など次々と新しいバンドによるデビュー盤がリリースされ、いよいよ「ニューグラスの時代」が花開きます。

a0038167_12363342.jpgこの流れに乗って、カントリー・ジェントルメンを脱退したバンジョー奏者のエディ・アドコックがマンドリン奏者のジミー・ゴウドロウを誘って「セカンド・ジェネレーション」を結成し、同名タイトル・アルバムをリリースします。このアルバムは明らかにポップ路線を意識したものでした。

翌1973年にはニューヨークで活躍するプログレッシヴなブルーグラス集団「カントリー・クッキング」がデビュー2枚目のアルバム『バレル・オブ・ファン』をリリースします。このアルバムはブルーグラスの枠組みを超えた自由奔放な演奏が特徴的でした。

a0038167_12370890.jpg自由奔放と言えば、ビル・モンローのサンフランシスコ公演の穴埋めに結成されたバンド「ミュールスキナー」の同名タイトル盤は、ブルーグラスという概念を解放し、新たなる可能性を指し示したものでした。

このグループは、シートレインやローワンズでロックを経験したピーター・ローワンと、同じくシートレイン、ブルー・ヴェルヴェット・バンドなどで豊富な経験を重ねたリチャード・グリーン、イーヴン・ダズン・ジャグ・バンド(Even Dozen Jag Band))やアース・オペラ(Earth Opera)と呼ばれるサイケデリック・ロック・バンドで新感覚を身につけたデヴィッド・グリスマン、またバーズで得たカントリー・ロックのフレイバーを遺憾なく発揮するクラレンス・ホワイト、さらに独特の“キース・スタイル”という超絶テクノ・バンジョーでお馴染みのビル・キースが主要メンバーでした。

そこにベースのジョン・カーン(John Kahn)とドラマーのジョン・ゲラン(John Guerin、彼は1972年7月からの半年間バーズのメンバー)を加えたグループは、それまでの経験からしてブルーグラスの枠組みに収まるはずもなく、このメンバーにして初めて創り出された音楽となりました。

しかし残念なことに、アルバムがリリースされて数ヶ月後にクラレンス・ホワイトは酔っ払い運転の車にはねられ非業の死を遂げてしまいます。


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by scoop8739 | 2018-10-04 12:44 | Road To New Grass

321 「ニューグラス」への道(その38)

フェスティバルの新しい試み

「ウッドストック・フェスティバル」はどちらかというと政治的な背景を持っていましたが、ブルーグラスのそれは政治的目的というより、演奏者、およびプロモーターの経済的目的を達成させることと、また新しい入場者のブルーグラス音楽への好奇心を満たすことにあります。

1969年秋、メリーランド州キャラウェイで行われた「第1回メリーランド・インディアン・サマー・ブルーグラス・フェスティバル」ではケンタッキー州ルイヴィルからやって来たブルーグラス・アライアンスやワシントンD.C.から駆けつけたエマーソン&ウォルドロンのバンドが人気を集めます。彼らはそれまでのブルーグラスとはひと味もふた味も違っていました。

1970年代に入るとフェスティバルは以前よりも増え、そのせいで各フェスティバルではビッグネーム・バンドが揃っての出演が少なくなっていきます。逆に多くのフェスティバルではローカル・バンドをフィーチャーし、ときに一つや二つのビッグネーム・バンドを入れて成功するケースも現われてきました。

ローカル・バンドの中にはアライアンスやエマーソン&ウォルドロンらの人気にあやかり、新しい音楽ジャンルを取り入れたバンドが登場し入場者の話題となりました。ビル・モンローによる1971年の「ビーン・ブロッサム・フェスティバル」ではニュージーランドで唯一のプロのブルーグラス・バンド「ハミルトン・カウンティ・ブルーグラス・バンド」や、日本からやって来た「ブルーグラス45」がステージに上がっています。

またフェスティバルには初登場のジョン・ハートフォードが、ドブロにタット・テイラー、ギターにノーマン・ブレイク、フィドルにヴァッサー・クレメンツといったアルバム『エアロ・プレイン』(Aero-Plain)の仲間と共に出演しました。そしてプログレッシヴなバンドとしては、ビル・エマーソンが移籍した新生「カントリー・ジェントルメン」や「ブルーグラス・アライアンス」も出演しています。

同じ年に行われたもう一つの大きなフェスティバル、キャンプ・スプリングスで開催された「第7回レイバーデイ・ウィークエンド・オリジナル・ブルーグラス・ミュージック・フェスティバル」にはアール・スクラッグスが息子たちを中心とした彼のレビューと共に出演しています。

このフェスティバルのもう一つの目玉となったのは、「ミュールスキナー・ニュース」誌によるファン投票の表彰でした。この年の賞を総なめにしたのはカントリー・ジェントルメンで、最も有望なバンドはトニー・ライス、サム・ブッシュ、コートニー・ジョンソンらを庸するブルーグラス・アライアンスでした。

そうした主催者の地道な努力もあって、1972年のシーズンにはかつてないほど多くのフェスティバルが開催されました。そしてその多くで入場者数が増加しています。


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by scoop8739 | 2018-10-01 15:45 | Road To New Grass