<   2018年 09月 ( 8 )   > この月の画像一覧

320 「ニューグラス」への道(その37)

ニューグラス・リヴァイヴァルの登場

1968年にケンタッキー州ルイヴィルで結成されたブルーグラス・アライアンスは、アップ・トゥ・デイトなブルーグラスを演奏するバンドとして人気を誇っていました。その後バンドはメンバー・チェンジを繰り返し、クロス・ピッキングの名手ダン・クレアリーが抜けた後にはクラレンス・ホワイトの流れを汲むトニー・ライスが入団します。

1970年初秋になってマンドリンのサム・ブッシュ、すぐ後の11月にはバンジョー奏者のコートニー・ジョンソン、翌71年末にカーチス・バーチ(ギター、ドブロ)が次々と入れ替わり加入し、結局、設立メンバーはフィドル奏者のロニー・ピアスとベース奏者のイーボ・ウォーカーだけとなってしまいました。

1972年にトニーがJ.D.クロウのバンドに加わるため退団すると、ロニーを除く4人のメンバーは「ポニー・エキスプレス」というバンドを立ち上げアライアンスを退団します。このバンドはすぐに「ニューグラス・リヴァイヴァル」と名を改めます。

彼らは楽器にピックアップを取り付け、ロック・ミュージシャンのようにステージを動き回り、より大きな音で自分たちの音楽を表現しました。このことがロック・ファンの関心を高めます。その演奏の特徴は間奏に長いインプロビゼーション(アドリヴ演奏)を入れることでした。それ自体は単純なコード進行でしたが、自由な表現が可能になり、まるでジャズのようであり、フリース・タイルのジャム・セッションが拡張されたような感じと受け止められます。

a0038167_15060487.jpg1972年にリリースされた彼らのアルバムに写るメンバーの姿が、長髪、Tシャツにジーンズという、まるでロック・ミュージシャンのような風貌だったため、ブルーグラス・ファンに与えたショックは大きいものでした。それに輪をかけるかのように、A面1曲目からロックン・ロールの定番曲「火の玉ロック」(Great Ball Of Fire)の吠えるようなヴォーカルで始まるのですから、まさにセンセーショナルなデビューとなったのです。

そしてA面最後の曲「ロンサム・フィドル・ブルース」ではインプロビゼーションを交えた7分余りの熱演で“ロック・グラス”の誕生を窺わせるものとなりました。


[PR]
by scoop8739 | 2018-09-27 15:09 | Road To New Grass

319 「ニューグラス」への道(その36)

カントリー・ジェントルメンの華麗なる転身

アルバム『そのようにやりなさい』(Play It Like It Is)を最後に11年間に亘ってバンドを引っ張ってきたジョン・ダフィーが去ったカントリー・ジェントルメンは、その後バンジョーのエディ・アドコックも抜け、メンバーにはマンドリンにジミー・ゴウドロゥ、バンジョーにビル・エマーソン、そしてベースがビル・イェイツと、オリジナル・メンバーはギター&ヴォーカルのチャーリー・ウォラー一人となってしまいました。

a0038167_08313563.jpg当然ながら彼らの創り出すサウンドは以前のジェントルメンとは違うものとなりました。このメンバーで1971年に発表されたアルバム『サウンド・オフ』(Sound Off)はビル・エマーソン色の強いものとなっています。

従来のジェントルメンのレパートリーからは「オレンジ・ブロッサム・スペシャル」(Orange Blossom Special)、ジョン・ダフィー作の「この神の子等」(These Men Of God)が収録されていますがその他は全て新しい曲です。

特筆すべきはエマーソンが前バンドから持って来た曲「フォックス・オン・ザ・ラン」(Fox On The Run)、さらにCNS&Yの名曲「ティー・ユア・チルドレン」(Teach Your Children)、ビートルズの「イエスタデイ」(Yesterday)など、まさに“ニュー・グラス”を象徴するような曲が多く収録されていることです。

このように時代の趨勢に従って、モダン・ブルーグラスの旗頭だったカントリー・ジェントルメンも“ニュー・グラス”バンドとしての転身を遂げていったのです。

なおこのアルバムにはクリフ・ウォルドロンのバンドに在籍中のマイク・オゥルドリッヂがドブロで4曲ほど参加しています。


[PR]
by scoop8739 | 2018-09-25 08:33 | Road To New Grass

318 「ニューグラス」への道(その35)

異才ジョン・ハートフォードが「ニューグラス」に与えた影響

ソングライターとして「ジェントル・オン・マイ・マインド」を提供するなど初期のグレン・キャンベルを全面サポートし、バーズのアルバム『ロデオの恋人』へも参加するなど、ソングライター、マルチ・プレイヤーとして異才ぶりを発揮したのがジョン・ハートフォードでした。

彼は19371230日、ニューヨークに生まれ、セントルイス、ミズーリで幼少時を過ごします。そこで彼は音楽的な影響の多く受けました。

初期の影響はナッシュビルのグランド・オール・オープリーの放送からで、アール・スクラッグス(Earl Scruggs)のスリー・フィンガー・スタイルのバンジョー演奏でした。ハートフォードが 13歳になる頃には熟練した昔ながらのフィドルとバンジョーの名手となっていました。またすぐにギターとマンドリンを演奏することも学んでいます。そしてジョン・バロウズ高等学校に留学中に初めてのブルーグラス・バンドを結成します。

高等を卒業後、セントルイスにあるワシントン大学に入学し4年間で商業芸術プログラムを修了しますが、音楽に専念するためにそれを中退し現地で音楽シーンに専念します。そこではDJとして活動したり、バンドで演奏したり、時には地元レーベルにシングル盤を録音しています。

1965年に彼はカントリー音楽業界の中心であるナッシュビルに移ります。1966年にRCA ビクターと契約し、同年にファースト・アルバム『ルックス・アット・ライフ』(Looks at Life)を制作しています。

a0038167_09020848.jpg1967年に、彼は2枚目のアルバム『地球と音楽』(Earthwords Music)で「ジェントル・オン・マイ・マインド」(Gentle On My Mind)を生み出します。

この曲はグレン・キャンベル(Glen Campbell)の耳に留まり、グレンの歌によって1968年のグラミー賞で4つの賞を獲得します。そのうち2つはハートフォード自身に贈られました。

この曲はそれまでのカントリー・ソングの中で最もヒットしたものとなり、その結果、得た印税で彼は自由を買ったと言っています。

人気が高まるにつれて彼は西海岸に移ります。そこではコメディー・ショーに出演したり、バンジョーを演奏したり、ガスリー・トーマスの歌 「ラッキーになるよ」(I'll be Lucky)でヴォーカル・ハーモニーを歌いました。彼はまたロマンス(The Romance)のアルバム『恋人』(Sweetheart)ではバーズと演奏をしています。

コメディー・ショーでの成功で、テレビの探偵シリーズの主役を務めたりもしましたが、彼はナッシュビルに戻り音楽に専念するようにします。

a0038167_09021880.jpg1968年から1970年までに彼はRCA4枚のアルバム、『ラヴ・アルバム』(Love Album)、『住宅プロジェクト』(Housing Project)、『ジョン・ハートフォード』(John Hartford)、『アイアン・マウンテン・デポ』(Iron Mountain Depot)を残しています。

1971年になって彼はワーナー・ブラザーズ・レコードに移籍し、ヴァッサー・クレメンツ、タット・テイラー、ノーマン・ブレイクらと共に伝統的なスタイルで録音する自由を与えられました。

a0038167_09022996.jpgそこで彼は、1971年にアルバム『エアロ・プレイン』(Aereo-Plain、デヴィッド・ブロンバーグがプロデュース)を、翌1972年には『モーニング・ビューグル』(Morning Bugle、ジョン・サイモンがプロデュース))をリリースします。これらのアルバムは、数多い彼のアルバムの中でも最高傑作となりました。

アルバムでは古典的なヒルビリー芸をヒップでぶっ飛んだアコースティック・モードのもとに全面展開しています。これはハートフォードの型破りな個性が全開した超名盤として今でもブルーグラス史に燦然と輝いています。

この2枚のアルバムは今では、「ニューグラス・リヴァイヴァル」のような若手のバンドが、新しいスタイルを創造する時代の初めに最も影響力のあったアルバムだと考えられています。

サム・ブッシュ自身も、「このアルバムが誕生していなければ、ニューグラス・ミュージックは出来ていないだろう」とも語っています。


[PR]
by scoop8739 | 2018-09-20 09:04 | Road To New Grass

317 「ニューグラス」への道(その34)

ブルーグラス・フェスティバルの地道な努力

ビル・モンローやリノ&スマイリーのマネージャーを歴任し、ブルーグラス界のプロモーターであったカールトン・ヘイニーは、フォーク・リヴァイヴァルの時代からフェスティバルというものに強い関心を持って接していました。

1965年夏の「ニューポート・フォーク・フェスティバル」において、ボブ・ディランがバターフィールドのバンドを伴ってロック仕立ての演奏を始めた時、ヘイニーは「フォークの時代が終わった」ことを実感します。

ヘイニーはブルーグラスの置かれている状況と将来を見据え、それをブルーグラスに応用しようと考えます。彼はフェスティバルがブルーグラス音楽に対する興味を実質的に成長させ刺激となり得るものと考えていました。

a0038167_09062730.jpg
そして同年9月にブルーグラス音楽が根強く定着しているヴァージニア州南西部にあるロアノークで初のブルーグラス・フェスティバルを開催します。全米に宣伝した甲斐があったのに加え、1960年代後半から高速道路網の拡大も伴って比較的用意に長距離を旅行することが可能になりました。そのため地元からはもちろん、アメリカ各地に住むブルーグラス愛好家たちがキャンピング・カーを仕立てて参加してきました。

入場者はブルーグラス音楽に対する興味や関心を共有し、持参した楽器でジャム・セッションをしたり、地元のセミプロのバンドと一緒に演奏を楽しみました。ヘイニーのこの試みは上手くいき、1970年代にはブルーグラス・フェスティバルの奔流となります。

1960年代後半には人々がキャンプに対する強い関心を持ち始め、企業もそれに対応するようにファンシーな自動車やレジャー用品市場の開拓を活発化させるなど、“週末キャンパー”を増やす要因となりました。こうした傾向は全米各地でロックやジャズを始め、あらゆる音楽ジャンルのフェスティバルが盛んになります。

a0038167_09080413.jpg
代表的なものとしては、1969年8月15日(金)から17日(日)までの3日間(あるいは、8月15日午後から18日午前にかけての4日間)、ニューヨーク州サリバン郡ベセルで開かれたロックを中心とした大規模な野外コンサート「ウッドストック・フェスティバル」でした。このフェスティバルは約40万人の観客を集め、アメリカの音楽史に残るコンサートになると同時に、1960年代アメリカのカウンター・カルチャーを象徴する歴史的なイベントとして語り継がれています。


[PR]
by scoop8739 | 2018-09-18 09:15 | Road To New Grass

316 「ニューグラス」への道(その33)

フラット&スクラッグスの分裂

レスター・フラットとアール・スクラッグスのフォギー・マウンテン・ボーイズは1948年の結成以来、常に陽のあたる場所を走り続け、ブルーグラス界を牽引してきた希有なバンドでした。

フォーク・リヴァイヴァルの恩恵を充分に受けたバンドは、その流行が過ぎ去ると方向性を失ってしまいます。そんな中、有能なビジネス・マネージャーだったスクラッグスの妻ルイーズ(Louise Scruggs)は、コロンビア・レコードのプロデューサー、ボブ・ジョンストンの意見を取り入れてフォギー・マウンテン・ボーイズにリズム・ギターを増やし、ドラムを入れたりしてヘビーなサウンドに変えていきます。またレパートリーにもボブ・ディランの曲を多く取り入れコンテンポラリーな題材を前面に打ち出しました。

ボブ・ジョンストンは早速、ナシュヴィルのスタジオ・ミュージシャンを数多く起用し、当時流行だったフィル・スペクターが用いる“音の壁”(Wall Of Sound)のブルーグラス版を作り上げます。

a0038167_13564933.jpgこうして1968年に作られたアルバム『チェンジン・タイム』(Changin’ Time)、『ボニーとクライドの物語』(The Story Of Bonnie & Clyde)、『ナシュヴィル・エアプレイン』(Nashville Airplane)の3枚は、売上げこそ良かったもののブルーグラス・ファンからは手厳しい評価を受けました。

スクラッグスは、この頃すでにブルーグラスを演奏することに飽きていました。彼は成長した自分の息子達と一緒に新しい音楽を試みたいと考えます。一方、伝統主義者で、このような傾向に不満のあったフラットはしだいにスクラッグスとの対立構造を作っていきます。

a0038167_13571054.jpgそして1969年3月、とうとう彼らはバンドを解散してしまいます。最後となったアルバムが『ファイナル・フリング』(Final Fling)でした。このアルバムでも11曲中7曲がボブ・ディランの作品で占められています。

a0038167_13573978.jpg解散後のフラットはメンバーの多くを引き連れて「ナシュヴィル・グラス」(Nashville Grass)を組み、昔ながらのブルーグラスを演奏し続けます。一方、ソロで活動し始めたアール・スクラッグスが1970年7月にリリースしたアルバムは流行の音楽を数多く収録した『ナッシュヴィル・ロック』(Nashville's Rock)(Columbia CS 1007)というものでした。このアルバムではスクラッグスのオリジナル3曲を除いて、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ポール・サイモンなど当時の流行曲で構成された斬新なものでした。また以前ボブ・ディランと共演した「ナッシュヴィル・スカイライン・ラグ」も収録されています。


[PR]
by scoop8739 | 2018-09-13 13:59 | Road To New Grass

315 「ニューグラス」への道(その32)

ニッティ・グリッティ・ダート・バンドの『アンクル・チャーリーと愛犬テディ』

ニッティ・グリッティ・ダート・バンドはジェフ・ハンナ、ジミー・ファッデン、ラルフ・バー、レス・トンプソン、ブルース・カンケル、ジョン・マッキューエンの6人からなるカントリー・ロック・バンドです。結成は1966年なのだそうですが、リバティ・レコードと契約し1967年に発表されたのがバンド名をタイトルにした『ニッティ・グリッティ・ダート・バンド』(Nitty Gritty Dirt Band)でした。

当初こそボブ・ディランの活動によって脚光を浴びることとなったアメリカの伝統音楽に目を向けた彼らの音楽はそこそこの注目を浴びるものの、同年『Ricochet』、翌年には『Rare Junk』とアルバムを発表するにも拘らずアメリカの古き時代の伝統音楽をベースとする彼らの音楽は一般受けしなかったのか低迷し、1969年に発表されたライブ盤『Alive!』を最後に彼らは一時解散してしまいます。

a0038167_12210583.jpg2人のメンバーが抜けてジミー・イボットソンが加入し5人編成となった彼らは再び集結し、1970年に2年振りに心機一転、再デビューの意気込みを持って制作したのがアルバム『アンクル・チャーリーと愛犬テディ』(Uncle Charlie & Hid Dog Teddy)でした。

それまではジャグバンド的要素や、ポップ、フォーク・ロック的な側面を強く打ち出していたのですが、このアルバムからはカントリー、ブルーグラス色を強めています。さらにマイク・ネスミス作の「シェリーのブルース」(Some Of Shelly’s Blues)、J.J.ウォーカー作の「ミスター・ボージャングルズ」(Mr. Bojangles)、ケニー・ロギンス作の「プー横町の家」(House At Pooh Corner)を含む4曲など、シンガー・ソングライターの作品をアレンジして聴かせるといった、当時のロック・シーンの“伝統的な音楽への回帰”という現象に呼応した作りとなっています。

さらにアルバム全体を支配しているのがジョン・マッキューエンの弾くバンジョーです。これが作品の性格を決定づけています。

アメリカの古き時代の伝統音楽とポピュラーなロックのメロディーを見事に融合させたこのアルバムは高い評価を受けて、アルバムからは「ミスター・ボージャングル」、「プー横町の家」などのシングル・ヒットを生み出し、またアルバムもグラミー賞にノミネートされるなど、それまでの彼らのどのアルバムよりも商業的に成功したアルバムとなりました。


[PR]
by scoop8739 | 2018-09-10 12:21 | Road To New Grass

314 ちょっと一服、1969年(昭和44年)の音楽事情

私が小学生3年生の時に家にテレビがやってきました。初めは月光仮面やポパイや相撲やプロレスなんかを観ていましたが、ほかの番組にも興味を持った時、そこに現われたのが愉快なオヤジ集団でした。
a0038167_10040884.jpg

11歳の夏に発売されたハナ肇とクレージーキャッツの「無責任一代男」を聴いた途端に、私は勇気づけられました。この歌の作詞は青島幸男、作曲は萩原哲晶、もちろん歌っているのは植木等ですよ。

東宝クレージー映画の第1作『ニッポン無責任時代』の主題歌として作られたこの歌は映画と共に大ヒットします。ヒットの理由について作詞家の青島は、「大人たちの不誠実さも反吐が出るほど見せられてきた戦後の若い世代には、この歌は我が意を得たとばかり受け入れられたに違いない」と自らの詞を分析しています。

これ以降、植木はこの歌の「こつこつやる奴ぁ、ご苦労さん!」というフレーズと共に「無責任男」というイメージが定着することになるのです。このフレーズを聴いた私はその後の人生観を決定づけられてしまいました。自分勝手な解釈ですが、もうコツコツと勉強する時代は終わったのだ、と。

という訳で、高校3年生になった私は「楽して大学進学を狙うにはコレしかない」という手を思いつきます。それが、子供の頃から得意としていた絵を描いて受験できるという美大進学への道でした。1969年、私は画塾に通いながら受験生とは思えないくらいのんびりとした日々を過ごします。

a0038167_10042182.jpgさてこの年は、1月18日から19日にかけて東大安田講堂攻防戦があり、東大内での逮捕者は600名以上となり、この影響で東京大学の入学試験が中止されます。私の通っていた高校の先輩にはこの影響で東大受験を断念した人もいました。


a0038167_10043713.jpg明るい話題としては7月20日、アメリカではアポロ11号が人類初の月面有人着陸を果たします。今でもその真偽が問われていますが、そんなことはどうでもいいのです。私にとっては翌8月15日から17日(現地時間)に、アメリカはニューヨーク州サリバン郡ベセルで行われた野外ロック・フェスティバル『ウッドストック・フェスティバル』の方に興味が行っていたのです。約40万人の観客の食事とトイレの事情はどうなっているのか?と。

a0038167_10045497.jpgそうこうするうちに大晦日を迎えます。第11回日本レコード大賞が決定しました。「いいじゃないの幸せならば」という刹那的な歌を歌ったのは佐良直美。最優秀歌唱賞に森進一の「港町ブルース」、そして最優秀新人賞にはピーターの歌った「夜と朝のあいだに」でした。さらに同じ日の夕刻から始まった第20回NHK紅白歌合戦は、ピンキーとキラーズの登場でポップス歌謡時代の幕開けとなります。

a0038167_10054442.jpgこの年に流行った曲というと、由紀さおりの「夜明けのスキャット」、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」、前述のピンキーとキラーズによる「恋の季節」、皆川おさむの「黒ネコのタンゴ」、森山良子の「禁じられた恋」、青江三奈の「池袋の夜」、内山田洋とクール・ファイブの「長崎は今日も雨だった」、カルメン・マキの「時には母のない子のように」、藤圭子「新宿の女」、ザ・キング・トーンズの「グッド・ナイト・ベイビー」などが挙げられます。

a0038167_10055732.jpgまた洋楽では、やはり断然強いのがビートルズでした。「ゲットバック/ドントレットミーダウン」、「カムトゥゲザー/サムシング」、「ジョンとヨーコのバラード」と立て続けにヒット曲を連発します。勢い余って他人にも曲をプレゼントしてそちらもヒットしています。それがメリーホプキンの「グッドバイ」でした。

a0038167_10214649.jpgさらにローリングストーンズ の「ホンキートンクウィメン/無情の世界」、サイモンとガーファンクルは「ボクサー/ベイビードライバー」、B・J・トーマスの「雨に濡れても」、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルの「プラウドメアリー」、ピーターポール&マリーの「悲しみのジェットプレーン」などとジャンルも多彩な年でした。


[PR]
by scoop8739 | 2018-09-06 10:22 | ブレイク・タイム

313 「ニューグラス」への道(その31)

フライング・ブリトゥ・ブラザーズの頻繁なメンバー交替

1969年になるとバーニー・レドンがフライング・ブリトゥ・ブラザーズに加わり、2作目『ブリトゥ・デラックス』から3作目まで在籍しました。

レドンはクリス・ヒルマンのいた「スコッツヴィル・スクワイアレル・バーカーズ」でキャリアをスタートさせ、フロリダ州に移住した時、後にイーグルスのメンバーとなるドン・フェルダーのバンド「コンチネンタルズ」に加入しています。

その後「ハーツ・アンド・フラワーズ」を経て、1968年の終わりに伝説的バンジョー奏者ダグ・ディラードと出会い、ディラードと元バーズのジーン・クラークが結成したディラード&クラークに参加します。その後、ブリトゥズに加わりました。

ところがレドンはブリトゥズでは商業的成功への可能性が感じられないという理由で脱退し、リンダ・ロンシュタットのバック・バンドの仕事で出会ったグレン・フライ、ドン・ヘンリー、ランディ・マイズナーと合流し、1971年にイーグルスを結成します。

a0038167_15151003.jpg

さて、ブリトゥズの2作目『ブリトゥ・デラックス』に収録された楽曲は、パーソンズとヒルマン、さらにはレドンが単独もしくは前者二人と共作などの形で関わったものが目立ちます。さらに耳を惹くのが、B面最終曲でローリング・ストーンズの曲「野生の馬」(Wild Horses)を歌っていることでした。この曲はパーソンズと個人的に親交の深かったミック・ジャガーとキース・リチャーズによって作られています。この曲が収録されたローリング・ストーンズのアルバム『スティッキー・フィンガーズ』(Sticky Fingers)はブリトゥズ盤から約1年後にリリースされました。

このブリトゥズの2作目『ブリトゥ・デラックス』は、時代としてのフォークの背景、急速に進化するロックの背景、そこでのロックとカントリーの融合を図る試みとして、1960年代から70年代への西海岸音楽の橋渡し(典型的にはバーズからイーグルスに至る流れ)という重要な役割を果たしています。

バンドは『ブリトゥ・デラックス』を発表後にパーソンズが脱退し、ヒルマンと新メンバーのリック・ロバーツが中心となって活動を続け、度重なるメンバー・チェンジの後、結局1971年に解散しています。

このバンドの終末期には、サポート・メンバーとして活躍したフィドルのバイロン・バーライン、ベースのロジャー・ブッシュ、ヴォーカル、ギターのケニー・ワーツが、バンジョーのアラン・マンデをメンバーに加えてカントリー・ガゼットをスタートさせます。いよいよニューグラスの足音が近づいてきています。


[PR]
by scoop8739 | 2018-09-03 15:17 | Road To New Grass