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302 「ニューグラス」への道(その20)

フライング・ブリトゥ・ブラザーズの試み

バーズを脱退したグラム・パーソンズとクリス・ヒルマンが中心となり、ペダル・スティールのスニーキー・ピート・クライナウ(Sneaky Pete Kleinow)とベースのクリス・エスリッジ(Chris Ethridge)を加えて1968年に結成されたのがフライング・ブリトゥ・ブラザーズです。

彼らはバーズで試みた「カントリー・ロック」をさらに発展させ、サザン・ソウルの要素までも取り入れ、まさに"ルーツ・ロック"というものを目指します。

こうしたグラム・パーソンズの試みは、誰もが「ウッドストック・フェスティバル」を頂点とする浮ついたロック共同幻想に踊らされていた1960年代後半の激動期にあって、そうした時流に逆らうかのように、南部人としての立脚点をカントリーに求めたロック・アーティストの“見直し作業”だと考えられます。

つまり、パーソンズとしては混乱の時代だからこそあえて自らの足下を見つめ直す作業ながら、単に“振り返る”のではなく、あくまで現在進行形の「サウンド」なり「ノウハウ」にこだわりながらの“再確認作業“だったのです。

a0038167_08382603.jpgそしてデビュー・アルバム『黄金の城』(The Gilded Palace Of Sin)と2作目の『ブリトゥ・デラックス』(Burrito Deluxe)でその土台を確かなものとしました。

アルバム『黄金の城』でのオープニング曲「悪女の歌」Christine's Tuneは軽快なアップ・テンポのカントリー・ロックですが、3曲目「ドゥ・ライト・ウーマン」Do Right Womanと4曲目「通りの暗がり」Dark End Of The Streetは2曲ともダン・ペン作のサザン・ソウルの曲でした。この2曲が前半のハイライトとも言えます。

アルバム後半での聴きどころはメンバーのオリジナル曲の「ホット・ブリトゥ#1」Hot Burrito #1と「ホット・ブリトゥ#2」Hot Burrito #2です。

「ホット・ブリトゥ#1」はスニーキー・ピートのペダル・スティールの間奏のソロがなんともいえないほど美しいバラードです。また「ホット・ブリトゥ#2」は日本語ロック・バンドの草分け的存在である「はっぴいえんど」の「花いちもんめ」の元ネタとしても有名です。

フライング・ブリトゥ・ブラザーズはこれ以降の、70年代の西海岸の音楽シーンを考えた時に欠かせない脈流をつなぐ大事な架け橋となったバンドでした。


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by scoop8739 | 2018-07-19 08:39 | Road To New Grass

301 ちょっと一服、1968年(昭和43年)の音楽事情


1968
年、私は高校2年生。将来に対する夢も希望も漠然としていて、ともかく東京に行けば何とかなるとだけの思いで東京の大学に進学する方法を模索していました。

東京の大学と言えば、日本大学による使途不明金20億円など大学当局の不祥事(この頃から日本大学には常にキナ臭い事件が付き物でした)に端を発して学生が立ち上がる、所謂「大学紛争」が勃発します。

東京大学では自重を呼びかけた母親たちに学生が発した「とめてくれるなおっかさん」という言葉が流行語にもなっています。東大安田講堂攻防戦は翌年1月のことでした。

a0038167_09254358.jpegそんな年に「三億円事件」が発生しています。日本信託銀行国分寺支店の現金輸送車が白バイ姿の男に乗り逃げされた、あの有名な事件です。

事件から1年5ヶ月後に私はその地で暮らすことになりますが、当時は国分寺周辺に住む1万人をリストアップし、10億円もの費用と17万人の捜査員を動員して捜査に当たったそうです。しかし未決のまま昭和50年(1975年)に時効となりました。

国際情勢ではベトナム戦争への反戦ムードが高まり、「反戦集会」、「ヒッピー・スタイル登場」、「サイケデリックな広告やファッションの流行」など明るい浮ついた雰囲気の中にも、基調となる暗い影が全体に広がりを見せていた時代ともいえます。

テレビの世界でも、「巨人の星」や「ゲゲゲの鬼太郎」、「サイボーグ009」などの名作が放送開始となったほか、野際陽子や千葉真一が活躍した「キイハンター」が人気を博していました。

さてそんな1968年の我が国の音楽事情ですが、タイガースやテンプターズを代表とするグループ・サウンズが全盛期を迎えています。

またザ・ピーナッツの「恋のオフェリア」や「恋のロンド」がヒットしたり、千昌夫の「星影のワルツ」、東京ロマンチカの「小樽のひとよ」などのムード歌謡も流行していました。

11月4日にはフジテレビ系列にて伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」が放送開始します。

a0038167_09251112.jpegこの年の「第10回日本レコード大賞」には黛ジュンの歌った「天使の誘惑」が選ばれました。

洋楽では主流がサイケデリックからバブルガムへ移行し、クリーム、ジミー・ヘンドリックス、ヴァニラ・ファッジなどハード・ロックも流行った年でした。また、「恋は水色」のポール・モーリアやボビー・ゴールズボロ、セルジオ・メンデスに代表されるアダルト・コンテンポラリーも人気を博します。

a0038167_09252631.jpeg今では初登場1位が時々起るビルボードのシングル・チャートですが、この年の年間1位であるビートルズの「ヘイ・ジュード」(Hey Jude)はこの時、初登場10位での記録だったのだそうです。

そして10位→3位→1位と上昇し9週連続の1位となりましたが、翌年1969年には同じビートルズの「ゲット・バック」(Get Back)が同じように10位→3位→1位と上昇して5週連続1位になっています。

「ヘイ・ジュード」はポール・マッカートニーが(ひとりで寂しそうにしていた)ジョンの息子ジュリアンに書いた曲で、翌年にリリースされた「ゲット・バック」は(ジョンによれば)ポールがジョンに小野洋子のもとから戻って欲しいと願いを込めて書いた曲だそうです。

ポール・モーリアの「恋はみずいろ」(Love Is Blue(LAmour Est Bleu) は、1967年にヴィッキーの歌で発表されましたが、この年、ポール・モーリア編曲のインストゥルメンタル・バージョンが爆発的にヒットし、数多くのアーティストによってカバーされます。

前年1210日に航空事故により26歳で他界したジョージア州出身のR&B歌手オーティス・レディングもこの「ドック・オブ・ベイ」が (Sittin’ On The Dock Of The Bay) 41位で年間4位に入っています。


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by scoop8739 | 2018-07-17 09:29 | ブレイク・タイム

300 「ニューグラス」への道(その19)

バーズ、カントリー・ロックへ移行(後編)

a0038167_14304320.jpgアルバムは、それまでフォーク・シーンであまり顧みられることのなかったストレートなカントリー・サウンドを持つレパートリーが多く含まれ、ロック、トラディッショナル、ブルーグラスなどを統合したアメリカン・ルーツ・ミュージックへの回帰となりました。

こうした伝統的な部分への接触は、それまでフォーク・ミュージックの領域で行われてきたものでしたが、フォークの衰退のさなか、ロック・シーンで最も早くその作業を行ったのがこの『ロデオの恋人』だったのです。

ところがこのアルバムは当時のほとんどのバーズ・ファンの理解を超えていました。おそらく当のマッギンの理解をも超えていたに違いありません。それでもボブ・ディランがナシュヴィルで録音した『ジョン・ウェズリー・ハーディング』や、ザ・バンドのややカントリー的色彩を帯びた『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』と発売が同時期であったため、そんな背景もあってか「カントリー・ロックの名盤」と呼ばれるようになります。

この評価は一部の曲で当たっているものの、より正確には、ロック・シーンに“カントリー・ロック・ブーム”を仕掛けたアルバムだとも言え、まさしくその後のアメリカ西海岸を代表するサウンド「カントリー・ロック」に大きな影響を与えることとなります。

しかし、アルバムをリリースしたものの全くといっていいほど売れません。マッギンとパーソンズはこのカントリー志向を巡って対立し、その結果パーソンズはクリス・ヒルマンを誘ってバーズを脱退してしまいます。とうとうオリジナル・メンバーはマッギンのただ一人となってしまいました。

ちなみにその後のバーズはクラレンス・ホワイトのギター演奏など、高い演奏能力でカントリー・ロックを聴かせるライヴ・バンドとして定着しますが、新曲やチャート・アクションとは無縁の状況で惰性的な活動に陥り、マッギンはソロ活動に打開を構想し活動を非公式に休止します。そして1973年に突然オリジナル・メンバーで再編し、アサイラム・レコードからアルバムを発表し新作記念のライブ活動を短期間行ったのですが、同年中にまた解散しました。


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by scoop8739 | 2018-07-13 08:35 | Road To New Grass

299 「ニューグラス」への道(その18)

バーズ、カントリー・ロックへ移行(前編)

1968年になってバーズにグラム・パーソンズが加入してきます。パーソンズはそれまで、マール・ハガードやバック・オゥエンズらの曲をロックのスタイルで演奏する「インターナショナル・サブマリン・バンド」というグループを主宰していました。このバンドは1967年にデビュー・アルバムのレコーディングに取りかかります。

ところがパーソンズはレコーディング直後、「インターナショナル・サブマリン・バンド」の活動に飽き、折からクリス・ヒルマンの誘いを受けてバーズに移籍してしまいます。パーソンズ移籍後の1968年春に「インターナショナル・サブマリン・バンド」名義でリリースされたのが『セーフ・アット・ホーム』(Safe At Home)でした。これは今では世界初のカントリー・ロックのアルバムだと言われています。

a0038167_14304320.jpgさて、パーソンズがバーズに移籍してから作られたアルバムが『ロデオの恋人』(Sweetheart Of The Rodeo)でした。このアルバムはナシュヴィルで録音され、以前のサイケデリックな作風から一転、パーソンズ好みのカントリー要素が色濃く反映されています。

レコーディングには、マッギン(ギター)、ヒルマン(ベース、マンドリン)、パーソンズ(ギター)の主たるメンバーに加え、ロイド・グリーン(ペダル・スティール)、ジョン・ハートフォード(バンジョー、フィドル)、クラレンス・ホワイト(ギター)らが名を連ね、さらに「インターナショナル・サブマリン・バンド」でのレコーディングにも参加していたペダル・スティールのJ.D.メイネスとピアノのアール・P・ボールも顔を連ねていました。

アルバムはヴォーカルも演奏もみずみずしく、後にバーズ中期の傑作と言われようになります。リード・ヴォーカルの大部分はパーソンズが担当し、サウンドの要をパーソンズと共に参加したクラレンス・ホワイトのスティール・ギター風味のストリング・ベンダー奏法が占めています。さらに随所でジョン・ハートフォードによるフィドルやバンジョーの音色を聴くことが出来ますが、リーダーであるロジャー・マッギンとしてはパーソンズのアイデアに共鳴したものの、庇を貸して母屋を乗っ取られたような形となりました。


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by scoop8739 | 2018-07-12 14:31 | Road To New Grass

298 「ニューグラス」への道(その17)

フォーク・ロックからカントリー・ロックへ(後編)

さて、レドンはフロリダで何年か過ごした後、マレイの呼びかけで1968年に「ハーツ&フラワーズ」のメンバーとなりました。

a0038167_08341359.jpg彼らのセカンド・アルバム『馬、子供と忘れられた女』(Of Horses, Kids And Forgotten Women)では、レドン加入の影響か少しサイケ風味が薄れカントリー・ロック色がより強くなります。

選曲も相変わらず良くて、アーロ・ガスリーの「風のハイウェイ」(Highway In The Wind)、ライジング・サンズに在籍したジェシ・リー・キンケイドの「彼女は賛美歌を歌った」(She Sang Hymns Out Of Tune)、ジェイムス・フレミングの「昼間の色」(Colour Your Daytime)、ハーパーズ・ビザールも取り上げていたレッドベリーの「カウボーイだった頃」(When I Was A Cowboy)などが耳をひきます。中でもハープシコードではじまる「昼間の色」がなかなかの名曲です

なお、トラディショナルの曲にメンバー3人のクレジットが入っていたりしていますが、その中ではカントリー・ジェントルメンで有名な曲「二人の少年」(Two Little Boys)が哀愁を帯びた心地よいカントリー・ロック・ナンバーに仕上がっています。

またビートルズの『サージェント・ペパーズ』に影響を受けたであろうと思われるマレイ作の「ブリキの天使に捧ぐ」(Ode To A Tin Engel)など、イーグルスにつながる西海岸カントリー・ロックのパイオニア的存在として評価されています。

「ハーツ&フラワーズ」は商業的には決して成功したバンドとは言えませんでしたが、メロディックなフォーク・ロックとカントリー・ロックの絶妙な調和と美しい演奏、そして三人のハーモニーは、この後のディラーズやスワンプ・ウォーター、バーズなどへ影響を与えていきます。


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by scoop8739 | 2018-07-09 08:35 | Road To New Grass

297 「ニューグラス」への道(その16)

フォーク・ロックからカントリー・ロックへ(前編)

かつてクリス・ヒルマンが在籍していたL.A.のブルーグラス・バンド「スコッツヴィル・スクワイアレル・バーカーズ」(Scottsville Squirrel Barkers)でギターとドブロを弾いていたラリー・マレー(Larry Murray)を中心に、デイヴ・ドウソン(Dave Dawson、ヴォーカル、ギター、オートハープ)、リック・クンハ(Rick Cunha、ヴォーカル、ギター)からなる「ハーツ&フラワーズ」はフォーク・ロック・バンドとして、1967年にキャピトルからアルバム・デビューをしています。

a0038167_11445408.jpg彼らの創り出すサウンドはいかにも60年代的な少しサイケがかったフォーク・ロックから、カントリー・ロックへと変化していく過渡期の様相を見事にあらわしています。たとえばバーバンク・サウンドを例にとれば、同時期のハーパーズ・ビザールやボー・ブラメルズが1作ごとに作風を変えロック的アプローチに変化してく様相にちょうど対応するかのように、まさしく時代の大きなうねりが凝縮されているような感じでした。

彼らの初のアルバム『今がその時』(Now Is The Time For Hearts and Flowers)はシンガー・ソングライターの時代を先取りしたような選曲の妙が味わえます。

ドノヴァンの「トライ・フォー・ザ・サン」(Try For The Sun)、ロジャー・ティリスンの「ロックン・ロール・ジプシー」(Rock And Roll Gypsies)、ティム・ハーディンの「信じる訳」(Reason To Believe)、デヴィッド・リンドレーが在籍したカレイド・スコープの「プリーズ」(Please)、ジェリー・ゴフィンとキャロル・キングの作品「ロード・トゥ・ノーウェア」(Road To Nowhere)、そしてカントリー・ロック的アプローチのマール・ハガード作「寂しい逃亡者」(I’m A Lonesome Fugitive)、同じくホイト・アクストンの「一万の夕焼け」(10,000 Sunsets)という曲など、メンバーのオリジナルと共に収録されています。

バンドは翌1968年にクンハが脱退し、バーニー・レドン(Bernie Leadon)と交替しました。

レドンは後にイーグルスの創設メンバーとしてとても有名ですが、彼はミネソタ州東部ミネアポリスの出身で1957年にカリフォルニア州サンディエゴに移住しています。そしてバンジョー奏者としてブルーグラス・バンド、「スコッツヴィル・スクォレル・バーカーズ」に参加しました。

このバンドにはギター奏者にケニー・ワーツ(Kenny Wertz、後にフライング・ブリトゥ・ブラザーズからカントリー・ガゼットへ)と共にドブロ奏者としてラリー・マレーが在籍していました。バンドは1枚のアルバムを残して1962年に解散してしまいます。


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by scoop8739 | 2018-07-05 11:47 | Road To New Grass

296 「ニューグラス」への道(その15)

サイケデリック・ロック期に一瞬輝いた伝説的なバンド(後編)

時系列が逆になりますが、196611月にLAのナイト・クラブ「パンドラ・ボックス」の閉鎖に抗議してサンセット・ストリップに集まった若者の群衆に対して警察が治安目的で働いた暴力的行為を目撃したスティルスは、彼のエポック・メイキングとなる曲「価値あるもののために」(For What It’s Worth)を書きました。

バンドはすぐにハロウィンの夜の「ウィスキー・ア・ゴーゴー」のステージでこの曲を演奏し評判を得ると、数日後にはレコーディングされロサンゼルスのラジオ局KHJから流されました。

a0038167_09211238.jpgこの曲は翌年の3月までには全米でトップ10入りし、アトコ・レーベルは急遽ファースト・アルバム収録の「ベイビー、叱らないで」(Baby Don't Scold Me)とこの曲を入れ替え、ファースト・アルバムを再リリースしたところ、最終的には100万枚を売り上げてゴールド・ディスクに輝きます。

1967年1月、グループはニューヨークに遠征しドアーズも出演するクラブ「オンディーヌ」に出演しますが、このツアーでパーマーがマリファナ所持で逮捕されカナダに強制送還されという事態に陥ります。

レコーディングやライブのためにアメリカの両岸を行き来していたバンドには多くのベーシストがセッション・メンバーとして参加し、その中には「マザーズ・オブ・インヴェンション」のジム・フィルダーもいました。テレビ出演の際などにはあらかじめ録音しておいた音源を流し、ロード・マネージャーがベースを抱えて当て振りをして乗り切ったそうです。

こういった状況のもと、次のアルバムの制作はとても難航します。バンドはプロデューサーのグリーン、ストーンと対立し、またヤングとスティルスも何かにつけて口論を繰り返します。2人はそれぞれ自分がアルバムをプロデュースすることを主張し、ファースト・アルバムでは曲を提供しなかったフューレイがヤングと同じ数の曲をこのセカンド・アルバムのために書いています。

a0038167_09213219.jpg2枚目のアルバムとなった『バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン』はグループというより個々のメンバーの仕事の集合としてバンドの最高傑作となりました。またアルバムの反応もよく、ビーチ・ボーイズに同行するツアーで全米を回りバンドの状況は上向いているように見えました。

しかし、1968年1月にパーマーが薬物不法所持のため再び強制送還され、せっかくの活動に水を差します。グループは後任にジム・メッシーナを加入させますが、パーマーがいなくなったのに続いてヤングも徐々にグループから離れてゆき、しばしばスティルスがライブですべてのリード・ギター・パートを弾くはめになりました。

レコーディングは、3月の終わりまでにメッシーナのプロデュースで予定通り行われましたが、グループの解散は間近に迫っていました。

結局、彼らはこの年の5月に解散しますが、この2年間で大きな商業的成功は得られなかったものの、密度の高い、調和のとれた良質の作品を生み出しました。加えて、1970年代以降の音楽シーンの第一線で活躍する人材を多く輩出したバンドとして今でも語り継がれています。


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by scoop8739 | 2018-07-02 09:23 | Road To New Grass