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295 「ニューグラス」への道(その14)

サイケデリック・ロック期に一瞬輝いた伝説的なバンド(前編)

「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれたドラッグやサイケデリック文化が花開いた時代に、ほんの一瞬だけ輝いてすぐ散っていった超短命の伝説的なバンドがバッファロー・スプリングフィールドでした。

彼らのサウンドは新しい時代を切り開こうとする前向きな精神を感じさせる刺激的なものでした。当時のザ・フーを思わせるような実験的なギターの使い方といい、「サイケデリック」という言葉にぴったりの浮遊感覚、伝統音楽と実験音楽との奇妙な融合、すべてがこの時代を象徴していました。(「ウエストコースト・ロック」Produced by Minoru Sasakiから引用)

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バンドは、スティーヴン・スティルス(Stephen Stills、ギター・キーボード・ボーカル)とリッチー・フューレイ(Richie Furay、ギター・ボーカル)の2人がニール・ヤング(Neil Young、ギター・ピアノ・ボーカル)と出会ったのをきっかけに、ブルース・パーマー(Bruce Palmer、ベース)を誘って1966年4月に結成されました。

彼らはバーズのマネージャーであるジム・ディックソンの紹介で、パッツィー・クラインやザ・ディラーズとプレイしたこともあるドラマーのデューイ・マーチン(Dewey Martin)を加えバンドの陣容を整えます。

a0038167_08422876.jpgグループ名はスティルスとフューレイが居候していたフリードマンの家の外に停めてあった蒸気ローラー車のメーカー名(Buffalo-Springfield Roller Company)から採ったそうです。

彼らは1966411日にハリウッドのナイト・クラブ「トゥルバドール」でデビューし、数日後にはザ・ディラーズ、バーズの前座としてカリフォルニアを短期間ツアーします。

ツアー終了後にバーズのクリス・ヒルマンがサンセット・ストリップの有名なナイト・クラブ「ウィスキー・ア・ゴーゴー」のオーナーに強く働き掛け、彼らは19666月から2カ月間、「ウィスキー・ア・ゴーゴー」のレギュラーとして採用されました。

この間の演奏が評判を呼び、多くのレコード会社が彼らに興味を示しますが、最終的にアトランティック・レコードとの契約を獲得しアルバムのレコーディングに取り掛かかります。

プロデューサーのチャーリー・グリーンとブライアン・ストーン(ともにソニー&シェールのマネージャーでもある)はヤングの声を気に入らず、ヤングの作品の大半のリード・ヴォーカルをフューレイに割り当てました。

アルバムのリリースに先立ち、ファースト・シングル「今日、クランシーは歌わない」(Nowadays Clancy Can't Even Sing)をリリースしますがこの曲は大した反響を得ませんでした。

a0038167_08310290.jpgそして196612月、このファースト・シングルも含むデビュー・アルバム『バッファロー・スプリングフィールド』がアトランティック傘下のアトコ・レーベルからリリースされます。


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by scoop8739 | 2018-06-29 08:43 | Road To New Grass

294 「ニューグラス」への道(その13)

バーズを脱退したジーン・クラークのその後

既述ではありますが、バーズは1965年4月にコロムビア・レコードからボブ・ディランのカヴァー曲「ミスター・タンブリン・マン」(Mr. Tambourine Man)でデビューしました。

そのB面に採用された「きみを欲しいと思ってた」(I Knew I'd Want You)はメンバーの一人、ジーン・クラークが書いた曲です。彼は続く6月にリリースされた同じくディランのカヴァー曲「やりたいことのすべて」(All I Really Want To Do)のB面曲「スッキリしたぜ」(I'll Feel A Whole Lot Better)も書き、バーズのファースト・アルバム『ミスター・タンブリン・マン』では「あなたはいない」(Here Without You)、ジム・マッギンとの共作曲「泣くことはないさ」(You Won't Have To Cry)など、メンバー中で一番多くオリジナル曲を書いてバーズの屋台骨として活躍しました。

さらにサード・シングル「ターン・ターン・ターン」(Turn! Turn! Turn! To Everything There Is a Season)のB面でも彼の書いた「時間を気にしない彼女」(She Don't Care About Time)が採用され、アルバム『ターン・ターン・ターン』には3曲が採用されています。

本当はもっとたくさんの曲を書いているのですが、アルバム中に彼の曲が多くなりすぎるという理由で、他のメンバーがクレームをつけたために多くは収録されませんでした。もっともこの時期のバーズの楽曲は基本的に彼の曲以外はボブ・ディランなどのカヴァー曲ばかりで、彼の曲を多く採用すると彼にばかり印税が入るので、特にジム・マッギンやデヴィッド・クロスビーとしては面白くなかったようです。

そして翌1966年1月には彼とジム・マッギン、デヴィッド・クロスビーの3人で共作したサイケデリック・ロックの先駆けともいえるシングル「霧の8マイル」(Eight Miles High)の録音を済ませますが、2月になると前述した楽曲の採用の件で他のメンバーとの衝突があったり、飛行機嫌いでツアーに出るのが不可能になったことを理由に彼はバーズを脱退してしまいます。

a0038167_11243232.jpgバーズを脱退した後のクラークは、翌1967年2月にゴスディン・ブラザーズとの共演盤を発表します。これは共演盤とは言いながらも実質的には彼のソロとしてのファースト・アルバムとなるものでした。

『ジーン・クラーク・ウィズ・ゴスディン兄弟』(Gene Clark With The Gosdin Brothers)とタイトルされたそのアルバムには、クリス・ヒルマン、マイケル・クラーク、クラレンス・ホワイト、レオン・ラッセル、グレン・キャンベル、ヴァン・ダイク・パークス、ダグ・ディラードなど錚々たる顔ぶれがレコーディングに参加しています。

このアルバムには、後にカントリー・ガゼットのファースト・アルバムに収録された失恋ソング「頑張ったネ」(Tried So Hard)や「押し続けよう」(Keep On Pushin’)のオリジナルが収録されています。プロデュースはラリー・マークスとゲイリー・アッシャーで、コロムビア・レコードからリリースされました。

クラークはこの後、デヴィッド・クロスビーが脱退したバーズに再び在籍するも3週間で脱退し、彼のソロ・アルバムのレコーディングに参加したバンジョー奏者のダグ・ディラードと意気投合し、1968年にディラード&クラークを結成します。

a0038167_11243960.jpgところで、クラークとの共演を果たしたヴァーンとレックスのゴスディン兄弟は1968年に『さよならの音色』(Sound Of Goodbye)というタイトルでキャピトル・レコードからアルバムを発表しています。リチャード・ハワード(Richard Howard)とエディ・ラビット(Eddie Rabbit)の作によるアルバム・タイトル曲は、これも後にカントリー・ガゼットのファースト・アルバムに収録されました。

なおゴスディン兄弟は、かつてクリス・ヒルマンと共に「ヒルメン」で活動していました。


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by scoop8739 | 2018-06-27 11:27 | Road To New Grass

293 「ニューグラス」への道(その12)

サイケデリック・ロックの追随者(後編)

しかしアルバムは期待通りには売れず、キーボード奏者のビル・スティーブンソンがバンドを去ります。ところが何かしら彼らに期待していたエレクトラ社は、翌1969年に2枚目のアルバム『偉大なるアメリカン鷲の悲劇』(The Great American Eagle Tragedy)を制作します。

a0038167_08402915.jpgこのアルバムにはロック・バンド「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」(Velvet Underground)のオリジナル・メンバーとして活動していたジョン・ケイル(John Cale、ビオラ)やジャック・ボーナス(Jack Bonus、サキソフォン)らが、そしてブルーグラスの世界からはバンジョー奏者のビル・キース(Bill Keith)がペダル・スティールでゲスト参加していました。

アルバムはホーンの導入やハードなエレクトリック・ギターによってロック色を強め、サウンドは前作よりもさらにバンド的なニュアンスが増しています。10分を越える大作のタイトル曲では60年代末のアメリカを描くなど意欲的で、かつ実験的なアプローチが強く印象づけられています。また本来のアコースティックな曲にも味わいがあり、60年代末の混沌としたエネルギーが満ち溢れています。

アルバム・ジャケットに描かれているのは、アメリカのシンボルである双頭の鷲に頭蓋骨が重ねられ、全体的に血液が染みたようなサイケデリックな図柄でした。しかしこのアルバムもまた全米チャートの上位には届きませんでした。

そしてとうとうバンドは2枚のアルバムと3枚のシングル盤を残して解散します。この後すぐにローワンはリチャード・グリーンの在籍しているカントリー・ロック・バンド「シートレイン」(Seatrain)に合流します。

一方のグリスマンは、ジェリー・ガルシア率いるグレイトフル・デッドが1970年に発表したアルバム『アメリカン・ビューティ』で2曲ほどマンドリンを弾いていますが、再び表舞台に登場するのは1973年にセッション・グループとしてリリースしたアルバム『オールド・アンド・イン・ザ・ウェイ』(Old And In The Way)まで待たなくてはなりません。


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by scoop8739 | 2018-06-25 08:24 | Road To New Grass

292 「ニューグラス」への道(その11)

サイケデリック・ロックの追随者(前編)

1942年8月、マサチューセッツ州に生まれたピーター・ローワンは、その頃の少年の誰もがそうだったように当時流行っていたロカビリー音楽に興味を持ちバンドを組みます。大学生になってフォーク・ブームが到来するとブルーグラスに興味を示しました。

彼にとってブルーグラスの師匠とでも言うべきバンジョー奏者のビル・キース(Bill Keith)の助力によりナッシュビルに招かれ、ビル・モンローのオーディションを受けるや見事に合格します。

ローワンは19661014日にブルー・グラス・ボーイズの一員としてのデビューを果たし、1967年春に退団するまでの間にモンローと一緒に作った曲「時の壁」(Walls Of Time)を始め計14曲のレコーディングを残しました。

その後、彼はマサチューセッツ州ボストンのフォーク・クラブでソロ活動を始めます。そこで知り合ったのがデヴィッド・グリスマンでした。

グリスマンは1945年にニュージャージー州ハッケンサックで生まれ育ち、ローワン同様、折からのフォーク・ブームの洗礼を受けます。そしてラルフ・リンズラーを聴いてマンドリンを知り、1960年にはワシントンD.C.でフランク・ウェイクフィールド(Frank Wakefield)の個人レッスンを受けるなどしてプロのマンドリン奏者となりました。

1963年に「イーヴン・ダズン・ジャグ・バンド」(The Even Dozen Jug Band)でミュージシャンとしての活動をスタートし、同じ年にはフォークウェイズ社(Folkways Records)からリリースされたレッド・アレン(Red Allen)とフランク・ウェイクフィールドのアルバムにも参加します。

サイケデリック・ロックが世界的に席巻しだすと、ローワンとグリスマンは1967年にアシッド系フォーク・グループ「アース・オペラ」を結成します。メンバーはベースにジョン・ナギ(John Nagy)、ドラムにポール・ディロン(Paul Dillon)、キーボードとビブラフォンにビル・スティーブンソン(Bill Stevenson)を加えた5人の編成でした。

a0038167_08401079.jpg彼らは、グリスマンとバンド仲間だったピーター・シーゲル(Peter Siegel、当時はバンジョー奏者)のプロデュースにより、ベテラン・ドラマーであったビリー・マンディ(Billy Mundi)のサポートを得て1968年にエレクトラ・レーベルからデビュー・アルバムをリリースします。

これはグリスマンのマンドリンとマンドセロに、ローワンの美しくも不思議な妖気に満ちたヴォーカルが絡んだ、ロック、ポップ、フォーク、ジャズのエッセンスを含む唯一無二の世界を描いたものとなりました。彼ら二人のアコースティック・テイストを当時のサイケデリック・シーンの概念で大胆に表現したアルバムでした。


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by scoop8739 | 2018-06-20 08:45 | Road To New Grass

291 「ニューグラス」への道(その10)

ラーガ・ロックからサイケデリック・ロックへ

a0038167_09321322.jpgバーズの「霧の8マイル」や、ビートルズの「ノルウェイの森」、そしてローリング・ストーンズの「黒くぬれ」等の影響もあってシタールを用いた曲が多く作られるようになります。1967年にスコット・マッケンジーが発表した「花のサンフランシスコ」もその1曲ですが、これも大ヒットを記録します。

ボブ・ディランのエレクトリック化に一役買ったポール・バターフィールド・ブルース・バンドが19667月に発表したアルバム『イースト・ウエスト』にもそんなシタールを感じさせる曲がありました。

インド楽器は一切使用していないものの、ヴォーカル代わりのハープと2本のギターが何とも妙な音色を奏でています。少しやり過ぎ感のある出だしから、いつの間にか通常のブルース・セッションに戻っているような具合に、豊かな音色と抜群の楽器テクニックで、まるでサイケデリックな壁画を描いていくようなスムーズさで展開していきます。

a0038167_09282265.jpg同年8月、既に人気ポップ・バンドの地位を確立していたビートルズは音の実験が詰まったアルバム『リボルバー』を発売します。このアルバムに収録されていた「トゥモロー・ネバー・ノウズ」などの楽曲は、マルチ・チャンネルといった録音技術の革新に電気楽器を主とした実験音楽と共鳴し異なる分野の現代音楽や前衛音楽を巻き込んで、ポップ・ミュージックの制作において大きな影響を与えました。

a0038167_09283807.jpg続いて同年9月にジェファーソン・エアプレインがアルバム『テイクス・オフ』(Takes Off)を発表し、アメリカ合衆国西海岸に始まったサイケデリック・ムーヴメントは1967年頃には世界中を席巻し多くのアーティストがこのジャンルの作品を残します。

このジャンルではグレイトフル・デッドやドアーズ、ヴァニラ・ファッジなどが有名ですが、プログレッシヴ・ロックの代表的なバンドとして知られているピンク・フロイドも、シド・パレットが在籍していた最初期はサイケデリック・ロックでした。


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by scoop8739 | 2018-06-18 09:32 | Road To New Grass

290 「ニューグラス」への道(その9)

バーズの迷走

「ミスター・タンブリンマン」、「ターン・ターン・ターン」の2大ヒットで幸先の良いスタートを切ったバーズでしたが、1966年初頭にメンバーの一人、ジーン・クラークが脱退します。

クラークはニュー・クリスティ・ミンストレルズを経てバーズの結成メンバーとなり、実質的に音楽面でバーズを支えていた存在でした。

a0038167_11111807.jpgそして314日、当時のサイケデリック・ムーブメントを先取りした先進的な楽曲「霧の8マイル」(Eight Miles High)が発表されます。この曲は世界初の“サイケデリック・ロック”と言われました。

ロジャー・マッギンの12弦ギターが不協和音でうねるようなイントロを奏でますが、これはラヴィ・シャンカールなどのインド音楽からの影響と窺えます。この曲のインパクトは大きく、いくつかのラジオ局では「ドラッグ体験を連想させる」との理由で放送禁止にされました。

a0038167_11113340.jpgこの「霧の8マイル」が収録された3枚目のアルバム『霧の5次元』(Fifth Dimension)でサイケデリックの扉を開けたバンドの溢れる才能は、さらにビートルズ『ラバーソウル』、『リボルバー』に刺激を受け、一気に覚醒します。それが1967年発表のアルバム『昨日よりも若く』(Younger Than Yesterday)でした。

後にCS&Nを結成するデヴィッド・クロスビーと、カントリー・ロック・シーンを牽引していくクリス・ヒルマンの作曲の才能が花開き、ロジャー・マッギンとの3人で勢いに溢れた名曲を連発します。なお、このアルバムはコンセプト・アルバムとして先駆的作品となりました。

ところが『霧の5次元』以降、マッギンの独裁に対して主にクロスビーが反発を強め、メンバー間それぞれの不和軋轢へと発展していきます。

こうした中、19671020日にシングル盤「ゴーイン・バック」(Goin' Back)が発売されます。この曲はジェリー・ゴフィンとキャロル・キングの作品で、既にダスティ・スプリングフィールドが19667月発表していた楽曲でした。これは完成が遅れていた次のアルバム『名うてのバード兄弟』への臨時処置となりました。

そうこうするうちにクロスビーが脱退してしまいます。製作中のアルバムの楽曲不足を解決するために以前に脱退していたジーン・クラークが招聘され一時的に復帰します。とうとうバンドの協調性も結束力も崩れマッギンのワンマン体制が強まり、さらにメンバー・チェンジが続きました。


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by scoop8739 | 2018-06-15 11:12 | Road To New Grass

289 「ニューグラス」への道(その8)

ビートルズがブルーグラスに与えた直接的な影響

1960年代の初頭に吹き荒れたビートルズ旋風は、アメリカンのポップス・シーンに大きな影響を与えたばかりか、同時期にアメリカで流行したフォーク・リヴァイヴァルで生まれたスターたちに大きく影響を与えます。ボブ・ディランのフォーク・ロック化や、バーズの誕生がその良い例でした。

さて、ボストン市街の北側を流れるチャールズ河をはさんだ北隣、ケンブリッジの街はハーバード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)を含む学研都市として有名な場所です。その辺りを中心に活躍していたのがチャールズ・リヴァー・ヴァレー・ボーイズでした。彼らはハーバード大学を始めとする名門校の学生たちによって1959年に結成されたバンドです。

そんな彼らのデビュー・アルバムはなんと英国からでした。1962年にかの地のレコード店主ダグ・ドーベルが彼らに興味を示し、自身のレーベル「フォークロアー」から記念すべきデビュー盤『ジョージア郵便の持ち込み』(Bringin’ In the Georgia Mail)をリリースします。

その後、バンドはアメリカで1000枚限定の自主製作盤を発表しますが、これはケンブリッジの名門コーヒー・ハウス「クラブ47」でのライブを収めたアルバムでした。これがボストンやニューヨークで大絶賛を浴びます。

a0038167_08375172.jpg素晴らしいバンドだと目を付けたのがフォーク・リヴァイヴァルと深く係わったプレスティッジ・レーベルでした。プレスティッジ社は彼らの本格的なアメリカ・デビュー盤制作を画策し、自主製作盤の権利を買い取って1962年に『ブルーグラスとオールドタイム・ミュージック』(Bluegrass and Old Timey Music)というタイトルで発売します。

さらにプレスティッジ社は1964年にセカンド・アルバムの制作に着手し、『ブルーグラスをご一緒に』(Blue Grass Get Together)を発表しました。これは本格的で素晴らしいブルーグラス・アルバムとしてブルーグラス・ファンからも高い評価を受けます。

チャールズ・リヴァー・ヴァレー・ボーイズの活躍場所は全米に広がったコーヒー・ハウスやフォーク・ソング・フェスティヴァルでしたが、残念なことに期待するほどの人気は上がらず苦戦の連続となります。

そこでエレクトラ・レコードの著名なプロデューサーであったポール・ロスチャイルドは、意欲的にもブルーグラスによるビートルズ・ソング・カヴァーを作ることを思い立ち、ナシュヴィルの精鋭をサポートにレコーディングに取りかかります。

a0038167_08380749.jpgそして出来上がったアルバムは、ベーシックな部分ではオリジナルの雰囲気を壊すことなく、かと言って無難なアレンジに終始していないところが魅力的なものでした。それは数あるビートルズ・カヴァー盤の中でも異彩を放ちながらも熱心なビートルズ・ファンに高く評価されます。

ボブ・シギンズ(Bob Siggins)のバンジョー、ジョー・ヴァル(Joe Val)のマンドリン、エヴァレット・アレン・リリー(Everett Allen Lilly)のベース、ジム・フィールズ(Jim Field)のギターとリード・ヴォーカル、それぞれのどれをとってもフォーク・シーンとビートルズを同時体験している彼らならではの特異な状況が手に取るように伝わります。またフォーク・ロックの出現に対するオールド・タイマーのあせりも感じられて興味をそそられるアルバムとなっています。


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by scoop8739 | 2018-06-13 08:41 | Road To New Grass

288 「ニューグラス」への道(その7)

フォーク・ロックのフォロワーたち

アメリカの若き大統領、ジョン・F・ケネディの暗殺に大きなショックを受けた22歳のポール・サイモンが作詞作曲したのが「サウンド・オブ・サイレンス」という曲でした。

a0038167_09001944.jpg彼は小学生の時からの親友だったアート・ガーファンクルを誘いバンドを組みます。そして彼らの実力が認められ、晴れてデビュー・アルバム『水曜の朝、午前3時』にこの曲が収録されます。元々フォーク・デュオとしてスタートした彼らでしたので、この曲の伴奏はアコースティック・ギターのみでした。

アルバムは、196410 月にメジャー・レーベルのコロンビアから発売されるもさっぱり売れません。時代はアコゥスティック・ギターを中心としたフォークから、エレキ・ギターを使ったフォーク・ロックへと移り変わろうとしていたのでした。

このアルバムを手掛けたプロデューサーのトム・ウィルソンは、彼のもとに「サウンド・オブ・サイレンス」に対して評判の良かったマイアミのプロモーション担当者から、「もう少しロックっぽくして、ティーン・エイジャーが足を踏み鳴らせるような感じにしたらどうだ?」という意見を貰っていたのを思い出します。

というのも当時、トムは無名の新人バンドだったバーズがディラン作品の「ミスター・タンブリン・マン」をロック風にカバーして大ヒットさせていたのが気になっていたからでした。

1965年6月、トムはこの曲をバーズのようにロック風にアレンジすればどうだと思いつき、当時着手していたボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」をレコーディングするために集合していたミュージシャンを使って、「サウンド・オブ・サイレンス」のエレクトリック・セクションのみを録音します。

そしてトムは、すでに解散していたサイモンとガーファンクルに断りもなく、新たにオーヴァー・ダビングを施してこの曲をシングル盤で発売します。

a0038167_14325226.jpg策はまんまと当たり、翌1966年初頭に新しい「サウンド・オブ・サイレンス」は全米ヒットチャートの1位に輝きました。その後、この曲は映画『卒業』の主題曲としても採用され、映画の大ヒットと共に全世界に広がっていったのです。

1964年のバーズ「ミスター・タンブリン・マン」の大ヒットと、1965年のサイモンとガーファンクル「サウンド・オブ・サイレンス」の大ヒットを機に、大衆の音楽的志向がフォークからフォーク・ロックへと変化していきました。

a0038167_09013339.jpg東海岸では、ラヴィン・スプーンフルやブルース・プロジェクト、ヤング・ブラッズがデビューし、西海岸からはボー・ブランメルズ、ソニー&シェール、バリー・マクガイア、ママス&パパスらが次々と登場してヒット・パレードを席巻していきます。またビーチ・ボーイズがキングストン・トリオのレパートリーから「スループ・ジョン・B」をカヴァーしたのも、当時のフォーク・ロックの隆盛と決して無縁のことではありません。


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by scoop8739 | 2018-06-11 09:04 | Road To New Grass

287 「ニューグラス」への道(その6)

フォーク・ロックの先兵

イギリスからのロック攻勢によって、アメリカの音楽界が大きな変化を強要されたとしても不思議ではありません。事実、フォーク特有のトロピカルな歌詞や素朴なメロディーにロックのビートを組み合わせ、エレクトリック・サウンドで処理する新しいスタイルの音楽が生まれます。

19657月、フォーク界ではナンバーワンのスターだったボブ・ディランが、ニューポート・フォーク・フェスティバルのステージに登場します。そこではお決まりのようにトリを務めるディランの演奏を、観客は何よりも楽しみにしていたのでした。

ところが彼はその期待を裏切るようにエレキ・ギターを携えて「ライク・ア・ローリング・ストーン」、「マギーズ・ファーム」など3曲を演奏します。バックで演奏していたマイク・ブルームフィールドのブルース・ギターなど、まさしくそのスタイルはロックそのものでした。

a0038167_11255443.jpgそんなフォークをロック風に演奏する錯誤の中、バーズはディラン作の「ミスター・タンブリン・マン」でデビューし、そのヒットによって“フォーク・ロック”の概念を確立させました。

バーズは1964年にロジャー・マッギン、ジーン・クラーク、デヴィッド・クロスビーによってロサンゼルスで結成され、その後すぐにベーシストとしてクリス・ヒルマン、ドラマーとしてマイケル・クラークが加入します。

メンバーのそれぞれがソロのフォーク歌手やフォーク・グループに参加していて、コーヒー・ハウスやトルバドール・クラブ、ウイスキー・ア・ゴーゴーといったライブ・スポットで演奏活動し、ビートルズの影響があってバンド結成を思い立ち集結します。

「ミスター・タンブリン・マン」は単にフォーク・ソングをエレクトリック化したものではありませんでした。12弦ギターやタンバリンなどを効果的に使い、フォーク的な3パートのコーラスにも工夫を凝らして、なだらかなサウンドが奏でられています。

それはフォーク・シーンからやって来たメンバーたちの資質と、プロフェッショナルなスタッフの力量によって作り上げられた見事な完成品と言えました。このサウンドは1965年以来数年の間、アメリカン・ポップスの主流となります。

さて、この曲が収録された同名アルバム『ミスター・タンブリン・マン』にはディラン作品が4曲も含まれていました。デビュー当時のバーズはフォークのスーパースターであったディランを強烈に意識していたようで、ロジャー・マッギンのヴォーカルはディランのフォロワーぶりを感じさせるに充分なものです。

彼らはさらにピート・シーガー作の「ターン・ターン・ターン」(Turn, Turn, Turn!)を発売しヒットさせますが、これら2曲はバーズのシンボル的な曲となりました。

ところで、「ミスター・タンブリン・マン」をいち早くアルバムに収録したのが誰あろうフラット&スクラッグスでした。彼らは1968年に発売の『変わる時』(Changin’ Time)ではボブ・ディランの曲を5曲も収録しています。


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by scoop8739 | 2018-06-07 11:29 | Road To New Grass

286 「ニューグラス」への道(その5)

フォーク・ロック・ブームの幕開け

a0038167_09113437.jpgビートルズ旋風がアメリカに上陸したのは1964年の春でした。その年の1月、キャピトル・レコードを通してシングル盤「抱きしめたい」とアルバム『ミート・ザ・ビートルズ』が発売され、翌2月にビートルズの4人はニューヨークのケネディ空港に降り立ちます。そしてエド・サリバン・ショーに出演を機に、ビートルズのアメリカでの人気が爆発しました。

4月にはヒット・チャートで上位5曲を独占するという前代未聞の記録を作ります。同年夏には映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』が全米に公開され、ビートルズ人気に拍車をかけました。

このビートルズ旋風は同時にデイヴ・クラーク・ファイヴやローリング・ストーンズを始めとするイギリスのロック勢がアメリカに進出するきっかけとなります。

a0038167_09114503.jpg1964年6月にイギリスのロック・バンド、アニマルズがシングルとしてリリースしたのが「朝日のあたる家」でした。この曲はその年の9月にビルボードのヒットチャートで3週連続1位となり、イギリス、スウェーデン、カナダのチャートでも1位を記録します。

曲のアレンジは、エレクトリック・ギターのアルペジオやVOXオルガンの伴奏が印象的で、レコードのクレジットには、アレンジャーとしてオルガン奏者のアラン・プライスの名が記載されています。

a0038167_09120546.jpg元々「朝日のあたる家」のメロディはトラッド・ソングとして英国に伝わっていたものが移民と共に海を渡り、様々な歌詞で歌われ続け、最終的に現在のニュー・オリンズの娼館を歌ったフォーク・ソングとしてアメリカのフォーク・シンガーによって歌われるようになりました。

ボブ・ディランのデビュー・アルバムに収められたこの曲「朝日のあたる家」は、当時グリニッジ・ヴィレッジで最も人気のあったフォーク・シンガーであるデイヴ・ヴァン・ロンクによる解釈(元々長調で歌われていたものを短調にアレンジして歌っていた)をそのまま真似て録音されたともの言われています。

一旦は若きディランの持ち歌となった「朝日のあたる家」は、今度は海を渡った英国で生まれ変わることとなります。1964年にデビューしたアニマルズにチャック・ベリーの前座の話が舞い込んだのを機に、これをチャンスと捉えたバンドはチャック・ベリーとはバッティングしない曲調の歌でファンを注目させようと考えます。

そうして出来上がったのが、ディランの歌ったマイナー調の「朝日のあたる家」に電気楽器を使ってR&B調にアレンジし、重くダークにしたものでした。一度聴いたら耳から離れないアラン・プライスのひきずる様な電子オルガンとエリック・バードンのシャウトが印象的なその曲は前述の通り、1964年6月にシングル盤でリリースされるや大ヒットとなり、7月には全英1位に、そして95日には全米でもビルボードのヒットチャートで3週連続の1位を獲得します。

アニマルズの歌った「朝日のあたる家」は元々フォーク・ソングだったものをロックにアレンジしたという意味で“最初のフォーク・ロック”の曲として重要視されており、ディランがロックに関心を持つきっかけになったとも言われています。


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by scoop8739 | 2018-06-04 09:23 | Road To New Grass