カテゴリ:Road To New Grass( 27 )

309 「ニューグラス」への道(その27)

東海岸に根付く新しい草

クリフ・ウォルドロン(Cliff Waldron)は1963年の結婚を機にワシントンD.C.により近いヴァージニア州北部に居を移します。当時のワシントンD.C.はフォーク・リヴァイヴァルの波に乗り、大学生を中心にブルーグラスが活発な地域でした。

ウォルドロンはその地で「ページ・バレー・ボーイズ」(The Page Valley Boys)というバンドに加入しマンドリン奏者として活躍を始めます。このバンドには有名なバンジョー・プレイヤーのビル・エマーソン(Bill Emerson)が在籍していて、そのうちエマーソンはウォルドロンを誘って「リー・ハイウェイ・ボーイズ」(The Lee Highway Boys)を結成することになります。バンドはすぐに「エマーソン&ウォルドロンとリー・ハイウェイ・ボーイズ」と名を改め、ワシントンD.C.界隈では人気のバンドとなりました。

彼らはワシントンD.C.周辺で流行の新しい潮流に逆らうことなく、フォークからロックまであらゆる音楽ジャンルの素材を積極的に取り入れて次々と新しい音楽をアレンジしていきます。

レパートリーにはティム・ハーディンの「もし私が大工だったら」(If I Were A Carpenter)やクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル(C.C.R.)の「プラウド・メアリー」(Proud Mary)、ゴードン・ライトフットの「朝の雨」(Early Morning Rain)など次々とその幅を広げていきました。

a0038167_08470549.jpg彼らのそうした活躍はレベル社に認められて1968年に初のアルバムをリリースすることになります。アルバムは『草(ブルーグラス)の新たな彩り』(New Shades Of Grass)と題され、折からのカントリー・ロックの波に乗って幸先よいスタートを切りました。

その後も彼らはイギリスのロック・バンド、マンフレッド・マン(Manfred Mann)の「フォックス・オン・ザ・ラン」(Fox On The Run)やC.C.R.の「ロダイ」(Lodi)など、最新のロック系音楽をレパートリーに加えながら3枚のアルバムを発表します。

a0038167_08474092.jpgバンドの屋台骨の一人、ビル・エマーソンがカントリー・ジェントルメンに移籍すると、ウォルドロンはバンド名を「ニュー・シェイズ・オブ・グラス」(The New Shades Of Grass)と改め、4枚目のアルバム『ライト・オン!』をリリースしました。

新体制でのスタートでしたが、レパートリーにはイアンとシルビアの「四つの強い風」(Four Strong Wind)や、ビージーズの「君に贈るメッセージ」(Gotta Get A Message To You)を加えるなど流行に敏感に対応する姿勢は変わりませんでした。


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by scoop8739 | 2018-08-09 08:48 | Road To New Grass

308 「ニューグラス」への道(その26)

カントリー・ロック誕生の背景

グラム・パーソンズがバーズに持ち込んだ“カントリーにロックを結びつける”というアイデアは、西海岸の音楽シーンで急速に他のアーティストに飛び火していきます。

もともとカリフォルニアはアメリカ合衆国のそう長くない歴史の中でもより歴史の浅い土地です。また開放的な気候風土も相まって伝統にとらわれることなく新しい音楽スタイルを築くには好都合な場所でした。

事実、カントリー・ロック以前にもサーフィン・サウンド、フォーク・ロック、サイケデリック・ロックなどの斬新なスタイルが生まれています。

しかし、このカントリーとロックとの融合作業は、実はそれほど簡単なことではありませんでした。何故なら、ある部分でカントリーはアメリカの体制を支持する音楽、ロックは反体制を象徴する音楽だったからです。思想の異なる両音楽のファンがそう易々と歩み寄ることはなかったのでした。

カントリーの有名なD.J.のラルフ・エメリーは、バーズの『ロデオの恋人』をヒッピーのカントリーだと批判し、また人気歌手のマール・ハガードは自作の「さすらいの流れ者」(Okie From Muskogee)の中で徴兵カードを焼いてしまうようなヒッピーを攻撃しています。

こういう状況下にありながら西海岸の多くのアーティストがカントリー・ロックに向かった理由は何だったのでしょうか?

ひとつには、60年代のL.A.やサンフランシスコのロック・シーンには本格的なブルーグラス出身者が潜在していたということが挙げられます。

かつてカリフォルニアは「ブルーグラス不毛の地」と言われていました。バンジョー、マンドリン、フィドルなどのアコゥスティック楽器で奏でられるブルーグラスはトラディッショナルな音楽と誤解されやすいのですが、ところがこの音楽形態は、ビル・モンローが1940年代にアパラチアン山脈に伝わるマウンテン・ミュージックを土台に、カントリーや黒人ブルースの要素を融合させて完成させた新しい音楽のスタイルだったのです。そして逆にブルーグラスはカントリーにも影響を与えていたのです。

そんなブルーグラスが西海岸のラジオ曲で紹介され始めたのは1950年代の後半のことでした。間もなくカリフォルニアにはいくつかのブルーグラス・バンドが胎動し始めます。

そこには後にロック・フィールドで活躍するクリス・ヒルマン、バーニー・レドン、ケニー・ワーツ、ラリー・マレー、クラレンス・ホワイト、ジェリー・ガルシア、デヴィッド・ネルソンらの姿がありました。

当時はフォークがひとつの主流音楽で、彼らはフォーク系スポットなどに活動の場を得ています。中でもケンタッキー・カーネルズのクラレンス・ホワイトは天才的なギター・テクニックで注目を浴びていました。

ところが西海岸でブルーグラスが深く根付くのに充分な時間は残されていませんでした。なぜなら1964年にアメリカに上陸したビートルズが、人々の興味をアコゥスティック音楽からエレクトリックなロック音楽に向けてしまったからです。そして次第に西海岸のブルーグラス・ミュージシャンたちも自ら希望して、また生活のためにやむを得ずロックに転向していきました。

しかし彼らブルーグラス出身のロック・ミュージシャンが後年、ルーツ・ミュージックに目覚めたことがカントリー・ロック形成にはずみをつけたばかりか、新たにディラーズ、ハーブ・ペダーセン、デヴィッド・グリスマン、ピーター・ローワン、バイロン・バーライン、リチャード・グリーンなどのブルーグラス・ミュージシャンをもシーンに巻き込んでいったのです。


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by scoop8739 | 2018-08-06 08:38 | Road To New Grass

307 「ニューグラス」への道(その25)

フライング・ブリトゥ・ブラザーズの試み

バーズを脱退したグラム・パーソンズとクリス・ヒルマンが中心となり、ペダル・スティールのスニーキー・ピート・クライナウ(Sneaky Pete Kleinow)とベースのクリス・エスリッジ(Chris Ethridge)を加えて1968年に結成されたのがフライング・ブリトゥ・ブラザーズです。

彼らはバーズで試みた“カントリー・ロック”をさらに発展させ、サザン・ソウルの要素までも取り入れ、まさに"ルーツ・ロック"というものを目指します。

こうしたグラム・パーソンズの試みは、誰もが「ウッドストック・フェスティバル」を頂点とする浮ついたロック共同幻想に踊らされていた1960年代後半の激動期にあって、そうした時流に逆らうかのように、南部人としての立脚点をカントリーに求めたロック・アーティストの“見直し作業”だと考えられます。

つまり、パーソンズとしては混乱の時代だからこそあえて自らの足下を見つめ直す作業ながら、単に“振り返る”のではなく、あくまで現在進行形の「サウンド」なり「ノウハウ」にこだわりながらの“再確認作業“だったのです。

そしてデビュー・アルバム『黄金の城』(The Gilded Palace Of Sin)と2作目の『ブリトゥ・デラックス』(Burrito Deluxe)でその土台を確かなものとしました。

a0038167_08464620.jpgアルバム『黄金の城』でのオープニング曲「悪女の歌」(Christine's Tune)は軽快なアップ・テンポのカントリー・ロックですが、3曲目「ドゥ・ライト・ウーマン」(Do Right Woman)と4曲目「通りの暗がり」(Dark End Of The Street)は2曲ともダン・ペン作のサザン・ソウルの曲でした。この3曲が前半のハイライトとも言えます。

アルバム後半での聴きどころはメンバーのオリジナル曲の「ホット・ブリトゥ#1」(Hot Burrito #1)と「ホット・ブリトゥ#2」(Hot Burrito #2)です。

「ホット・ブリトゥ#1」はスニーキー・ピートのペダル・スティールの間奏のソロがなんともいえないほど美しいバラードです。また「ホット・ブリトゥ#2」は日本語ロック・バンドの草分け的存在である「はっぴいえんど」の「花いちもんめ」の元ネタとしても有名な曲です。

フライング・ブリトゥ・ブラザーズはこれ以降の、1970年代の西海岸の音楽シーンを考えた時に欠かせない脈流をつなぐ大事な架け橋となったバンドでした。


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by scoop8739 | 2018-08-01 08:50 | Road To New Grass

306 「ニューグラス」への道(その24)

ディラード&クラークが果たしたカントリー・ロック普及拡大への重要な役割

1968年、ダグ・ディラードはディラーズを去り、バーズの初のヨーロッパ・ツアーに加わりました。その後、豪腕プロデューサー、ジム・ディクソンとの縁でジーン・クラークとバンドを組むことになります。

a0038167_09104612.jpgそして1968年にはAMから最初のアルバム『幻想の旅』(Fantastic Expedition)をリリースしました。そこにはクラークのリード・ヴォーカル、アコゥスティック・ギター、ハーモニカに、ディラードのバンジョー、フィドル、ギター、バーニー・レドン(ヴォーカル、リード・ギター、ベース、バンジョー)、デヴィッド・ジャクソン(ベース)、ドン・ベック(マンドリン、レゾナンス・ギター)のほかに、クリス・ヒルマン(マンドリン)、バイロン・バーライン(フィドル)、アンディ・ベリング(ハープシコード)らが参加しています。

アルバムのほとんどの曲はクラーク、ディラード、レドンによって書かれ、ライヴ・パフォーマンスの時にだけマイケル・クラークがドラムで参加していました。

このアルバムでは、A面5曲目に「朝発つ汽車」(Train Leaves Here This Morning)B面1曲の「誰かからの注意」(With Care From Someone)、B面4曲「計画中」(In The Plan)などニューグラス系の名曲のオリジナルが収録されています。

a0038167_14133016.jpg彼らは1969年に2枚目のアルバム『朝の光の中で』(Through the MorningThrough the Night)をリリースします。この時、バーニー・レドンが退団し(1971年にイーグルスを共同創設します)、ドナ・ワッシュバーン(ギター、ボーカル)がグループに加わりました。

レコーディングにはクラーク、ディラード、ワッシュバーン、バーライン、ジャクソン、ジョン・コーニール(ドラム)の新ラインナップのほかに、レドン、ヒルマン、スニーキー・ピート・クレイノウ(ペダル・スチール・ギター)らがゲスト参加しています。

ディラードとクラークのバンドは、バンジョー、フィドル、ドラム、エレクトリック・ギター、スティール・ギター、キーボードなどを巧く融合させ、カントリー・ロックの普及拡大に重要な役割を果たします。彼らは1960年代後半に現れる南カリフォルニアのロック・シーンに大きく影響を与えるバンドとなりました。

彼らを追ってフライング・ブリトゥ・ブラザーズ、リンダ・ロンシュタット、マイケル・ネスミスのファースト・ナショナル・バンド、リック・ネルソン、ザ・ストーン・キャニオン・バンド、ポコ、イーグルスらが登場します。

しかし残念なことにバンドは分裂し、ジーン・クラークはソロとなり、ダグ・ディラードは短い期間だけ「ダグ・ディラード&エクスペディション」として演奏を続けましたが、すぐにソロ活動を始めます。

a0038167_09152424.jpgそしてダグは1969年に『バンジョー・アルバム』(Banjo Album)を発表します。このアルバムにはダグのほかに、旧友ジーン・クラーク、バーニー・レドン、ドン・ベック、ミルト・ホランド、ジョン・ハートフォードという超豪華な顔ぶれが参加しています。さらにベースにはジャズ畑からレッド・ミッチェルまでも参加し、まさにポップ・バンジョー・インスト集となりました。

当時の西海岸ではピカ一の腕前だったダグのプレイはさることながら、ブルーグラス・ミュージックをカントリー(ナシュヴィル)のフィルターを通さずにポップにキメたというアルバム造りが爽快でした。


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by scoop8739 | 2018-07-30 09:16 | Road To New Grass

305 「ニューグラス」への道(その23)

ディラーズの変貌(後編)

ダグの脱退後にバンジョー・プレイヤーとして新メンバーにハーブ・ペダーセンが加わり、1968年に新生ディラーズとして4枚目のアルバムを発表します。

a0038167_14180615.jpgそれは、ブルーグラスに対する大胆なアプローチを施した『麦わらスイート』(Wheatstraw Suite)というタイトルのアルバムでした。そこにはフル・オーケストラあり、エレクトリック・インストルメンテーションあり、そしてドラムも使用しての、伝統的なブルーグラス・サウンドから、よりポップなフィールドへの脱皮を図った記念すべきアルバムとなりました。

またさらにロックやフォークのソングライターの曲がカヴァーされています。ティム・ハーディンのスタンダード「信じる理由」(Reason To Believe)や、ビートルズの「夢の人」(I've Just Seen A Face)をディラーズ風に解釈していて、フォーク・リヴァイヴァルの衰退に照準を合わせ、リヴァイヴァル・バンドとしてのディラーズから、それに頼らずに活動していこうとする決意が汲み取れます。

a0038167_14182920.jpg続いて1970年にはアルバム『銅畑』(Copperfields)をリリースします。このアルバムもまた前作で始まった“カントリー・ロック・スタイル”を継承し、さらに押し進めています。

同じオーケストラとドラム(ポール・ヨークの演奏)、エレクトリック・ベースなどを使用し、ダウン・トゥ・アースなブルーグラス楽器にディラーズが得意とするコーラスを配したポップ・グラス・サウンドとなっています。ここでもハーブ・ペダーセンが「ブラザー・ジョン」など数曲のオリジナルを提供するなど重要な役割を果たしていました。

アルバムにはハリー・ニルソンの「レインメーカー」(Rainmaker)やビートルズの「イエスタデイ」(Yesterday)、エリック・アンダースンの「軽くドアを閉じて」(Close the Door Lightly)などジャンルの異なった曲が多く含まれていて、これらは30年近くを経た今でも驚くほど新鮮なものとして聴くことができます。

しかし両方のレコードとも商業的には成功しませんでしたが、トラディッショナル曲をアレンジした「オールド・マン・アット・ザ・ミル」(Old Man At The Mill)、「ヘイ・ボーイズ」(Hey Boys)をはじめとする曲作りの巧妙さや、ヴォーカル・ハーモニーの美しさは今なお高い評価を得ています。


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by scoop8739 | 2018-07-26 14:22 | Road To New Grass

304 「ニューグラス」への道(その22)

ディラーズの変貌(前編)

ディラーズ(The Dillards)はケンタッキー・カーネルズと共にアメリカ西海岸で活躍していた正統派ブルーグラス・バンドのひとつでした。その中心となったのは1937年生まれのダグ(Douglas)と、1942年生まれのロドニ(Rodney)のディラード兄弟です。彼らはミズーリ州セイラムで生まれ育ち、その後ミッチ・ジェイン(ベース)、ディーン・ウェッブ(マンドリン)とともにディラーズを結成します。

1962年になって彼らはカリフォルニアに進出しました。するとすぐさまエレクトラとの契約の機会を得て、彼らの人気を決定付けることになるテレビ番組「アンディ・グリフィス・ショー」(一流コメディアンによる人気番組)の出演が決まります。

a0038167_08514543.jpgさらに幸運は続き、1963年になるとかのジム・ディクソン(西海岸での凄腕プロデューサー)のプロデュースにより記念すべきファースト・アルバム『バック・ポーチ・ブルーグラス』(Back Porch Bluegrass)が発表されます。

その後も1964年にはアルバム『ほぼライヴ!』(Live!!!! Almost!!!)、そして1965年にはフィドルに当時学生だった新進気鋭のバーロン・バーラインを迎えて『弾いたり奏でたり』(Pickin' and Fiddlin')を発表するなど、前途洋々たる活躍ぶりでした。

ところが1966年になると時代の風向きが変わり、西海岸で活躍していた一方の花形バンド、ケンタッキー・カーネルズが時代の流れに逆らえず、その運営が困難となり解散してしまいます。

同時期、バーズの敏腕マネージャーでもあったジム・ディクソンとの縁からジーン・クラークのソロ作品にも参加していたダグは、弟のロドニーにディラーズを譲り、「ディラード&クラーク」(Dillard & Clark)を結成するためにバンドを去っていきました。こうして、ダグとロドニーは「カントリー・ロックの草分け」として別々の道を歩むことになったのです。


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by scoop8739 | 2018-07-25 08:57 | Road To New Grass

303 「ニューグラス」への道(その21)

ボブ・ディランのカントリー志向

ボブ・ディランは196712月、自身9作目となるアルバム『ジョン・ウェズリー・ハーディング』でカントリーの路線を始めます。

ところが、かつてディランの曲「ミスター・タンブリン・マン」をフォーク・ロック調にカバーし歌ってヒットさせたバーズが19688月にアルバム『ロデオの恋人』を発表します。これは後に「カントリー・ロックの名盤」と言われるほどのアルバムとなりました。

a0038167_08345043.jpgこれでさらに火がついたのか、1969年4月にディランは追いかけるように『ナシュヴィル・スカイライン』とタイトルされたカントリー・アルバムを発表します。レコーディングは前作、前々作に続いてカントリーのメッカであるナシュヴィルで行われました。

前作の発表から1年4ケ月が経ち、その間にアメリカではロバート・ケネディ上院議員とキング牧師の暗殺事件、ベトナム戦争への反戦運動など激動の季節を経てきました。またわずか数ヶ月後には今やなかば伝説化した「ウッドストック・ミュージック・フェスティバル」が開催されようとしていたのです。

そんな激動の折に何ですが、ディランといえばプロテストソングの旗手として大活躍していたはずが呑気に何のメッセージ性もないアメリカの保守的な音楽のカントリー・ソング(日本でいえば演歌のようなものでしょう?)をレコーディングしていたのです。

また何よりもこのアルバムではディランの声が変わっています。例のざらついた声は一切なしで、鼻にかかった澄んだ声になっていてまるで別人のようです。一説には元々ディランはデビュー前、つまりニューヨークにやって来る前まではこういう歌声だったという話があります。これはディランなりにベストと判断して歌っているようでアルバムのテイストとして適していると判断したのでしょう。

1曲目の「北国の少女」(Girl From The North Country)は有名なカントリー歌手、ジョニー・キャッシュとの共演
(実際はキャッシュとかなりの曲をレコーディングしたのですがアルバムで採用されたのは1曲のみでした)
です。

2曲目はインスト曲「ナシュヴィル・スカイライン・ラグ」(Nashville Skyline Rag)です。この曲は何も情報がなければ誰もディランの曲だとは思わなかったでしょう。完全なカントリー・ラグとなっています。

6曲目の「レイ・レディ・レイ」は本来、映画『真夜中のカーボーイ』の主題歌として作曲されたものですが、その締め切りに間に合わず、ハリー・ニルソンの「うわさの男」に差し替えられてしまったという経歴を持っている曲です。

アルバム全体を通して感じるのはとても聴きやすいポップなアルバムということです。歌っている内容も小難しいことは何もなく、恋愛や人生のちょっとした場面を切り取ったものでした。

しかしコアなファンは怒ったことでしょうね。音楽的な裏切りだととる評論家諸氏も多かったようです。ところがこの作品はそれまでのディランの作品よりも倍近く売れました。アルバムは全米3位、全英1位。「レイ・レディ・レイ」に至っては「雨の日の女」(Rainy Day Women #12 & 35)以来の最大のシングル・ヒットとなりました。


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by scoop8739 | 2018-07-23 08:36 | Road To New Grass

302 「ニューグラス」への道(その20)

フライング・ブリトゥ・ブラザーズの試み

バーズを脱退したグラム・パーソンズとクリス・ヒルマンが中心となり、ペダル・スティールのスニーキー・ピート・クライナウ(Sneaky Pete Kleinow)とベースのクリス・エスリッジ(Chris Ethridge)を加えて1968年に結成されたのがフライング・ブリトゥ・ブラザーズです。

彼らはバーズで試みた「カントリー・ロック」をさらに発展させ、サザン・ソウルの要素までも取り入れ、まさに"ルーツ・ロック"というものを目指します。

こうしたグラム・パーソンズの試みは、誰もが「ウッドストック・フェスティバル」を頂点とする浮ついたロック共同幻想に踊らされていた1960年代後半の激動期にあって、そうした時流に逆らうかのように、南部人としての立脚点をカントリーに求めたロック・アーティストの“見直し作業”だと考えられます。

つまり、パーソンズとしては混乱の時代だからこそあえて自らの足下を見つめ直す作業ながら、単に“振り返る”のではなく、あくまで現在進行形の「サウンド」なり「ノウハウ」にこだわりながらの“再確認作業“だったのです。

a0038167_08382603.jpgそしてデビュー・アルバム『黄金の城』(The Gilded Palace Of Sin)と2作目の『ブリトゥ・デラックス』(Burrito Deluxe)でその土台を確かなものとしました。

アルバム『黄金の城』でのオープニング曲「悪女の歌」Christine's Tuneは軽快なアップ・テンポのカントリー・ロックですが、3曲目「ドゥ・ライト・ウーマン」Do Right Womanと4曲目「通りの暗がり」Dark End Of The Streetは2曲ともダン・ペン作のサザン・ソウルの曲でした。この2曲が前半のハイライトとも言えます。

アルバム後半での聴きどころはメンバーのオリジナル曲の「ホット・ブリトゥ#1」Hot Burrito #1と「ホット・ブリトゥ#2」Hot Burrito #2です。

「ホット・ブリトゥ#1」はスニーキー・ピートのペダル・スティールの間奏のソロがなんともいえないほど美しいバラードです。また「ホット・ブリトゥ#2」は日本語ロック・バンドの草分け的存在である「はっぴいえんど」の「花いちもんめ」の元ネタとしても有名です。

フライング・ブリトゥ・ブラザーズはこれ以降の、70年代の西海岸の音楽シーンを考えた時に欠かせない脈流をつなぐ大事な架け橋となったバンドでした。


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by scoop8739 | 2018-07-19 08:39 | Road To New Grass

300 「ニューグラス」への道(その19)

バーズ、カントリー・ロックへ移行(後編)

a0038167_14304320.jpgアルバムは、それまでフォーク・シーンであまり顧みられることのなかったストレートなカントリー・サウンドを持つレパートリーが多く含まれ、ロック、トラディッショナル、ブルーグラスなどを統合したアメリカン・ルーツ・ミュージックへの回帰となりました。

こうした伝統的な部分への接触は、それまでフォーク・ミュージックの領域で行われてきたものでしたが、フォークの衰退のさなか、ロック・シーンで最も早くその作業を行ったのがこの『ロデオの恋人』だったのです。

ところがこのアルバムは当時のほとんどのバーズ・ファンの理解を超えていました。おそらく当のマッギンの理解をも超えていたに違いありません。それでもボブ・ディランがナシュヴィルで録音した『ジョン・ウェズリー・ハーディング』や、ザ・バンドのややカントリー的色彩を帯びた『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』と発売が同時期であったため、そんな背景もあってか「カントリー・ロックの名盤」と呼ばれるようになります。

この評価は一部の曲で当たっているものの、より正確には、ロック・シーンに“カントリー・ロック・ブーム”を仕掛けたアルバムだとも言え、まさしくその後のアメリカ西海岸を代表するサウンド「カントリー・ロック」に大きな影響を与えることとなります。

しかし、アルバムをリリースしたものの全くといっていいほど売れません。マッギンとパーソンズはこのカントリー志向を巡って対立し、その結果パーソンズはクリス・ヒルマンを誘ってバーズを脱退してしまいます。とうとうオリジナル・メンバーはマッギンのただ一人となってしまいました。

ちなみにその後のバーズはクラレンス・ホワイトのギター演奏など、高い演奏能力でカントリー・ロックを聴かせるライヴ・バンドとして定着しますが、新曲やチャート・アクションとは無縁の状況で惰性的な活動に陥り、マッギンはソロ活動に打開を構想し活動を非公式に休止します。そして1973年に突然オリジナル・メンバーで再編し、アサイラム・レコードからアルバムを発表し新作記念のライブ活動を短期間行ったのですが、同年中にまた解散しました。


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by scoop8739 | 2018-07-13 08:35 | Road To New Grass

299 「ニューグラス」への道(その18)

バーズ、カントリー・ロックへ移行(前編)

1968年になってバーズにグラム・パーソンズが加入してきます。パーソンズはそれまで、マール・ハガードやバック・オゥエンズらの曲をロックのスタイルで演奏する「インターナショナル・サブマリン・バンド」というグループを主宰していました。このバンドは1967年にデビュー・アルバムのレコーディングに取りかかります。

ところがパーソンズはレコーディング直後、「インターナショナル・サブマリン・バンド」の活動に飽き、折からクリス・ヒルマンの誘いを受けてバーズに移籍してしまいます。パーソンズ移籍後の1968年春に「インターナショナル・サブマリン・バンド」名義でリリースされたのが『セーフ・アット・ホーム』(Safe At Home)でした。これは今では世界初のカントリー・ロックのアルバムだと言われています。

a0038167_14304320.jpgさて、パーソンズがバーズに移籍してから作られたアルバムが『ロデオの恋人』(Sweetheart Of The Rodeo)でした。このアルバムはナシュヴィルで録音され、以前のサイケデリックな作風から一転、パーソンズ好みのカントリー要素が色濃く反映されています。

レコーディングには、マッギン(ギター)、ヒルマン(ベース、マンドリン)、パーソンズ(ギター)の主たるメンバーに加え、ロイド・グリーン(ペダル・スティール)、ジョン・ハートフォード(バンジョー、フィドル)、クラレンス・ホワイト(ギター)らが名を連ね、さらに「インターナショナル・サブマリン・バンド」でのレコーディングにも参加していたペダル・スティールのJ.D.メイネスとピアノのアール・P・ボールも顔を連ねていました。

アルバムはヴォーカルも演奏もみずみずしく、後にバーズ中期の傑作と言われようになります。リード・ヴォーカルの大部分はパーソンズが担当し、サウンドの要をパーソンズと共に参加したクラレンス・ホワイトのスティール・ギター風味のストリング・ベンダー奏法が占めています。さらに随所でジョン・ハートフォードによるフィドルやバンジョーの音色を聴くことが出来ますが、リーダーであるロジャー・マッギンとしてはパーソンズのアイデアに共鳴したものの、庇を貸して母屋を乗っ取られたような形となりました。


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by scoop8739 | 2018-07-12 14:31 | Road To New Grass