カテゴリ:Road To New Grass( 10 )

291 「ニューグラス」への道(その10)

ラーガ・ロックからサイケデリック・ロックへ

a0038167_09321322.jpgバーズの「霧の8マイル」や、ビートルズの「ノルウェイの森」、そしてローリング・ストーンズの「黒くぬれ」等の影響もあってシタールを用いた曲が多く作られるようになります。1967年にスコット・マッケンジーが発表した「花のサンフランシスコ」もその1曲ですが、これも大ヒットを記録します。

ボブ・ディランのエレクトリック化に一役買ったポール・バターフィールド・ブルース・バンドが19667月に発表したアルバム『イースト・ウエスト』にもそんなシタールを感じさせる曲がありました。

インド楽器は一切使用していないものの、ヴォーカル代わりのハープと2本のギターが何とも妙な音色を奏でています。少しやり過ぎ感のある出だしから、いつの間にか通常のブルース・セッションに戻っているような具合に、豊かな音色と抜群の楽器テクニックで、まるでサイケデリックな壁画を描いていくようなスムーズさで展開していきます。

a0038167_09282265.jpg同年8月、既に人気ポップ・バンドの地位を確立していたビートルズは音の実験が詰まったアルバム『リボルバー』を発売します。このアルバムに収録されていた「トゥモロー・ネバー・ノウズ」などの楽曲は、マルチ・チャンネルといった録音技術の革新に電気楽器を主とした実験音楽と共鳴し異なる分野の現代音楽や前衛音楽を巻き込んで、ポップ・ミュージックの制作において大きな影響を与えました。

a0038167_09283807.jpg続いて同年9月にジェファーソン・エアプレインがアルバム『テイクス・オフ』(Takes Off)を発表し、アメリカ合衆国西海岸に始まったサイケデリック・ムーヴメントは1967年頃には世界中を席巻し多くのアーティストがこのジャンルの作品を残します。

このジャンルではグレイトフル・デッドやドアーズ、ヴァニラ・ファッジなどが有名ですが、プログレッシヴ・ロックの代表的なバンドとして知られているピンク・フロイドも、シド・パレットが在籍していた最初期はサイケデリック・ロックでした。


[PR]
by scoop8739 | 2018-06-18 09:32 | Road To New Grass

290 「ニューグラス」への道(その9)

バーズの迷走

「ミスター・タンブリンマン」、「ターン・ターン・ターン」の2大ヒットで幸先の良いスタートを切ったバーズでしたが、1966年初頭にメンバーの一人、ジーン・クラークが脱退します。

クラークはニュー・クリスティ・ミンストレルズを経てバーズの結成メンバーとなり、実質的に音楽面でバーズを支えていた存在でした。

a0038167_11111807.jpgそして314日、当時のサイケデリック・ムーブメントを先取りした先進的な楽曲「霧の8マイル」(Eight Miles High)が発表されます。この曲は世界初の“サイケデリック・ロック”と言われました。

ロジャー・マッギンの12弦ギターが不協和音でうねるようなイントロを奏でますが、これはラヴィ・シャンカールなどのインド音楽からの影響と窺えます。この曲のインパクトは大きく、いくつかのラジオ局では「ドラッグ体験を連想させる」との理由で放送禁止にされました。

a0038167_11113340.jpgこの「霧の8マイル」が収録された3枚目のアルバム『霧の5次元』(Fifth Dimension)でサイケデリックの扉を開けたバンドの溢れる才能は、さらにビートルズ『ラバーソウル』、『リボルバー』に刺激を受け、一気に覚醒します。それが1967年発表のアルバム『昨日よりも若く』(Younger Than Yesterday)でした。

後にCS&Nを結成するデヴィッド・クロスビーと、カントリー・ロック・シーンを牽引していくクリス・ヒルマンの作曲の才能が花開き、ロジャー・マッギンとの3人で勢いに溢れた名曲を連発します。なお、このアルバムはコンセプト・アルバムとして先駆的作品となりました。

ところが『霧の5次元』以降、マッギンの独裁に対して主にクロスビーが反発を強め、メンバー間それぞれの不和軋轢へと発展していきます。

こうした中、19671020日にシングル盤「ゴーイン・バック」(Goin' Back)が発売されます。この曲はジェリー・ゴフィンとキャロル・キングの作品で、既にダスティ・スプリングフィールドが19667月発表していた楽曲でした。これは完成が遅れていた次のアルバム『名うてのバード兄弟』への臨時処置となりました。

そうこうするうちにクロスビーが脱退してしまいます。製作中のアルバムの楽曲不足を解決するために以前に脱退していたジーン・クラークが招聘され一時的に復帰します。とうとうバンドの協調性も結束力も崩れマッギンのワンマン体制が強まり、さらにメンバー・チェンジが続きました。


[PR]
by scoop8739 | 2018-06-15 11:12 | Road To New Grass

289 「ニューグラス」への道(その8)

ビートルズがブルーグラスに与えた直接的な影響

1960年代の初頭に吹き荒れたビートルズ旋風は、アメリカンのポップス・シーンに大きな影響を与えたばかりか、同時期にアメリカで流行したフォーク・リヴァイヴァルで生まれたスターたちに大きく影響を与えます。ボブ・ディランのフォーク・ロック化や、バーズの誕生がその良い例でした。

さて、ボストン市街の北側を流れるチャールズ河をはさんだ北隣、ケンブリッジの街はハーバード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)を含む学研都市として有名な場所です。その辺りを中心に活躍していたのがチャールズ・リヴァー・ヴァレー・ボーイズでした。彼らはハーバード大学を始めとする名門校の学生たちによって1959年に結成されたバンドです。

そんな彼らのデビュー・アルバムはなんと英国からでした。1962年にかの地のレコード店主ダグ・ドーベルが彼らに興味を示し、自身のレーベル「フォークロアー」から記念すべきデビュー盤『ジョージア郵便の持ち込み』(Bringin’ In the Georgia Mail)をリリースします。

その後、バンドはアメリカで1000枚限定の自主製作盤を発表しますが、これはケンブリッジの名門コーヒー・ハウス「クラブ47」でのライブを収めたアルバムでした。これがボストンやニューヨークで大絶賛を浴びます。

a0038167_08375172.jpg素晴らしいバンドだと目を付けたのがフォーク・リヴァイヴァルと深く係わったプレスティッジ・レーベルでした。プレスティッジ社は彼らの本格的なアメリカ・デビュー盤制作を画策し、自主製作盤の権利を買い取って1962年に『ブルーグラスとオールドタイム・ミュージック』(Bluegrass and Old Timey Music)というタイトルで発売します。

さらにプレスティッジ社は1964年にセカンド・アルバムの制作に着手し、『ブルーグラスをご一緒に』(Blue Grass Get Together)を発表しました。これは本格的で素晴らしいブルーグラス・アルバムとしてブルーグラス・ファンからも高い評価を受けます。

チャールズ・リヴァー・ヴァレー・ボーイズの活躍場所は全米に広がったコーヒー・ハウスやフォーク・ソング・フェスティヴァルでしたが、残念なことに期待するほどの人気は上がらず苦戦の連続となります。

そこでエレクトラ・レコードの著名なプロデューサーであったポール・ロスチャイルドは、意欲的にもブルーグラスによるビートルズ・ソング・カヴァーを作ることを思い立ち、ナシュヴィルの精鋭をサポートにレコーディングに取りかかります。

a0038167_08380749.jpgそして出来上がったアルバムは、ベーシックな部分ではオリジナルの雰囲気を壊すことなく、かと言って無難なアレンジに終始していないところが魅力的なものでした。それは数あるビートルズ・カヴァー盤の中でも異彩を放ちながらも熱心なビートルズ・ファンに高く評価されます。

ボブ・シギンズ(Bob Siggins)のバンジョー、ジョー・ヴァル(Joe Val)のマンドリン、エヴァレット・アレン・リリー(Everett Allen Lilly)のベース、ジム・フィールズ(Jim Field)のギターとリード・ヴォーカル、それぞれのどれをとってもフォーク・シーンとビートルズを同時体験している彼らならではの特異な状況が手に取るように伝わります。またフォーク・ロックの出現に対するオールド・タイマーのあせりも感じられて興味をそそられるアルバムとなっています。


[PR]
by scoop8739 | 2018-06-13 08:41 | Road To New Grass

288 「ニューグラス」への道(その7)

フォーク・ロックのフォロワーたち

アメリカの若き大統領、ジョン・F・ケネディの暗殺に大きなショックを受けた22歳のポール・サイモンが作詞作曲したのが「サウンド・オブ・サイレンス」という曲でした。

a0038167_09001944.jpg彼は小学生の時からの親友だったアート・ガーファンクルを誘いバンドを組みます。そして彼らの実力が認められ、晴れてデビュー・アルバム『水曜の朝、午前3時』にこの曲が収録されます。元々フォーク・デュオとしてスタートした彼らでしたので、この曲の伴奏はアコースティック・ギターのみでした。

アルバムは、196410 月にメジャー・レーベルのコロンビアから発売されるもさっぱり売れません。時代はアコゥスティック・ギターを中心としたフォークから、エレキ・ギターを使ったフォーク・ロックへと移り変わろうとしていたのでした。

このアルバムを手掛けたプロデューサーのトム・ウィルソンは、彼のもとに「サウンド・オブ・サイレンス」に対して評判の良かったマイアミのプロモーション担当者から、「もう少しロックっぽくして、ティーン・エイジャーが足を踏み鳴らせるような感じにしたらどうだ?」という意見を貰っていたのを思い出します。

というのも当時、トムは無名の新人バンドだったバーズがディラン作品の「ミスター・タンブリン・マン」をロック風にカバーして大ヒットさせていたのが気になっていたからでした。

1965年6月、トムはこの曲をバーズのようにロック風にアレンジすればどうだと思いつき、当時着手していたボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」をレコーディングするために集合していたミュージシャンを使って、「サウンド・オブ・サイレンス」のエレクトリック・セクションのみを録音します。

そしてトムは、すでに解散していたサイモンとガーファンクルに断りもなく、新たにオーヴァー・ダビングを施してこの曲をシングル盤で発売します。

a0038167_14325226.jpg策はまんまと当たり、翌1966年初頭に新しい「サウンド・オブ・サイレンス」は全米ヒットチャートの1位に輝きました。その後、この曲は映画『卒業』の主題曲としても採用され、映画の大ヒットと共に全世界に広がっていったのです。

1964年のバーズ「ミスター・タンブリン・マン」の大ヒットと、1965年のサイモンとガーファンクル「サウンド・オブ・サイレンス」の大ヒットを機に、大衆の音楽的志向がフォークからフォーク・ロックへと変化していきました。

a0038167_09013339.jpg東海岸では、ラヴィン・スプーンフルやブルース・プロジェクト、ヤング・ブラッズがデビューし、西海岸からはボー・ブランメルズ、ソニー&シェール、バリー・マクガイア、ママス&パパスらが次々と登場してヒット・パレードを席巻していきます。またビーチ・ボーイズがキングストン・トリオのレパートリーから「スループ・ジョン・B」をカヴァーしたのも、当時のフォーク・ロックの隆盛と決して無縁のことではありません。


[PR]
by scoop8739 | 2018-06-11 09:04 | Road To New Grass

287 「ニューグラス」への道(その6)

フォーク・ロックの先兵

イギリスからのロック攻勢によって、アメリカの音楽界が大きな変化を強要されたとしても不思議ではありません。事実、フォーク特有のトロピカルな歌詞や素朴なメロディーにロックのビートを組み合わせ、エレクトリック・サウンドで処理する新しいスタイルの音楽が生まれます。

19657月、フォーク界ではナンバーワンのスターだったボブ・ディランが、ニューポート・フォーク・フェスティバルのステージに登場します。そこではお決まりのようにトリを務めるディランの演奏を、観客は何よりも楽しみにしていたのでした。

ところが彼はその期待を裏切るようにエレキ・ギターを携えて「ライク・ア・ローリング・ストーン」、「マギーズ・ファーム」など3曲を演奏します。バックで演奏していたマイク・ブルームフィールドのブルース・ギターなど、まさしくそのスタイルはロックそのものでした。

a0038167_11255443.jpgそんなフォークをロック風に演奏する錯誤の中、バーズはディラン作の「ミスター・タンブリン・マン」でデビューし、そのヒットによって“フォーク・ロック”の概念を確立させました。

バーズは1964年にロジャー・マッギン、ジーン・クラーク、デヴィッド・クロスビーによってロサンゼルスで結成され、その後すぐにベーシストとしてクリス・ヒルマン、ドラマーとしてマイケル・クラークが加入します。

メンバーのそれぞれがソロのフォーク歌手やフォーク・グループに参加していて、コーヒー・ハウスやトルバドール・クラブ、ウイスキー・ア・ゴーゴーといったライブ・スポットで演奏活動し、ビートルズの影響があってバンド結成を思い立ち集結します。

「ミスター・タンブリン・マン」は単にフォーク・ソングをエレクトリック化したものではありませんでした。12弦ギターやタンバリンなどを効果的に使い、フォーク的な3パートのコーラスにも工夫を凝らして、なだらかなサウンドが奏でられています。

それはフォーク・シーンからやって来たメンバーたちの資質と、プロフェッショナルなスタッフの力量によって作り上げられた見事な完成品と言えました。このサウンドは1965年以来数年の間、アメリカン・ポップスの主流となります。

さて、この曲が収録された同名アルバム『ミスター・タンブリン・マン』にはディラン作品が4曲も含まれていました。デビュー当時のバーズはフォークのスーパースターであったディランを強烈に意識していたようで、ロジャー・マッギンのヴォーカルはディランのフォロワーぶりを感じさせるに充分なものです。

彼らはさらにピート・シーガー作の「ターン・ターン・ターン」(Turn, Turn, Turn!)を発売しヒットさせますが、これら2曲はバーズのシンボル的な曲となりました。

ところで、「ミスター・タンブリン・マン」をいち早くアルバムに収録したのが誰あろうフラット&スクラッグスでした。彼らは1968年に発売の『変わる時』(Changin’ Time)ではボブ・ディランの曲を5曲も収録しています。


[PR]
by scoop8739 | 2018-06-07 11:29 | Road To New Grass

286 「ニューグラス」への道(その5)

フォーク・ロック・ブームの幕開け

a0038167_09113437.jpgビートルズ旋風がアメリカに上陸したのは1964年の春でした。その年の1月、キャピトル・レコードを通してシングル盤「抱きしめたい」とアルバム『ミート・ザ・ビートルズ』が発売され、翌2月にビートルズの4人はニューヨークのケネディ空港に降り立ちます。そしてエド・サリバン・ショーに出演を機に、ビートルズのアメリカでの人気が爆発しました。

4月にはヒット・チャートで上位5曲を独占するという前代未聞の記録を作ります。同年夏には映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』が全米に公開され、ビートルズ人気に拍車をかけました。

このビートルズ旋風は同時にデイヴ・クラーク・ファイヴやローリング・ストーンズを始めとするイギリスのロック勢がアメリカに進出するきっかけとなります。

a0038167_09114503.jpg1964年6月にイギリスのロック・バンド、アニマルズがシングルとしてリリースしたのが「朝日のあたる家」でした。この曲はその年の9月にビルボードのヒットチャートで3週連続1位となり、イギリス、スウェーデン、カナダのチャートでも1位を記録します。

曲のアレンジは、エレクトリック・ギターのアルペジオやVOXオルガンの伴奏が印象的で、レコードのクレジットには、アレンジャーとしてオルガン奏者のアラン・プライスの名が記載されています。

a0038167_09120546.jpg元々「朝日のあたる家」のメロディはトラッド・ソングとして英国に伝わっていたものが移民と共に海を渡り、様々な歌詞で歌われ続け、最終的に現在のニュー・オリンズの娼館を歌ったフォーク・ソングとしてアメリカのフォーク・シンガーによって歌われるようになりました。

ボブ・ディランのデビュー・アルバムに収められたこの曲「朝日のあたる家」は、当時グリニッジ・ヴィレッジで最も人気のあったフォーク・シンガーであるデイヴ・ヴァン・ロンクによる解釈(元々長調で歌われていたものを短調にアレンジして歌っていた)をそのまま真似て録音されたともの言われています。

一旦は若きディランの持ち歌となった「朝日のあたる家」は、今度は海を渡った英国で生まれ変わることとなります。1964年にデビューしたアニマルズにチャック・ベリーの前座の話が舞い込んだのを機に、これをチャンスと捉えたバンドはチャック・ベリーとはバッティングしない曲調の歌でファンを注目させようと考えます。

そうして出来上がったのが、ディランの歌ったマイナー調の「朝日のあたる家」に電気楽器を使ってR&B調にアレンジし、重くダークにしたものでした。一度聴いたら耳から離れないアラン・プライスのひきずる様な電子オルガンとエリック・バードンのシャウトが印象的なその曲は前述の通り、1964年6月にシングル盤でリリースされるや大ヒットとなり、7月には全英1位に、そして95日には全米でもビルボードのヒットチャートで3週連続の1位を獲得します。

アニマルズの歌った「朝日のあたる家」は元々フォーク・ソングだったものをロックにアレンジしたという意味で“最初のフォーク・ロック”の曲として重要視されており、ディランがロックに関心を持つきっかけになったとも言われています。


[PR]
by scoop8739 | 2018-06-04 09:23 | Road To New Grass

285 「ニューグラス」への道(その4)

ジム&ジェシーの変身

ジム&ジェシーことマクレイノルズ兄弟はヴァージニア州南西部コーバアンというところで、兄のジムは1927年、弟のジェシーは1929年に生まれ育ちました。

彼らは青年期に同郷のスタンレー・ブラザーズらと知り合い、互いに切磋琢磨しながらプロとしての活動を始めます。その頃の彼らはまだブルーグラス・スタイルではなく、所謂「兄弟ストリング・バンド」として活躍します。バンドにはバンジョー奏者もいなくて、ジェシーはマンドリンを駆使し“マンドリンのスクラッグス・スタイル”を開発しました。それが後世に言われる「マクレイノルズ・スタイル」奏法です。

ジム&ジェシーがブルーグラス・スタイルへと変わっていったのは、もちろんビル・モンローの率いるブルー・グラス・ボーイズの影響が大きかったのですが、彼らはその影響を受けつつも、誰にも真似の出来ない独自のスタイルを築いていきます。

1962年にエピック社に所属すると昔日に優るとも劣らぬ人気を博します。そして1965年までに4枚のアルバムをリリースしています。順に『ブルーグラス・クラシック』(Bluegrass Classics)、『ブルーグラス・スペシャル』(Bluegrass Special)、『旧い田舎の教会』(The Old Country Church)、『ヨーカム』(Y'all Come! Bluegrass Humor With Jim & Jesse And The Virginia Boys)というアルバムで、これらはいずれもブルーグラスの範疇に留まるものでした。

a0038167_11522536.jpg1965年になって、彼らは時代の流れとヒット性を追い求めて果敢に大変身を敢行します。ここで放ったアルバム『田舎の果実摘み』(Berry Pickin’ In The Country)は世のブルーグラス・ファンをアッと驚かせました。

というのもこのアルバムに収録されている全曲が、「ジョニー・B・グッド」(Johnny B. Goode)や「ベートーヴェンをぶっ飛ばせ」(Roll Over Beethoven)といったチャック・ベリーの歌ったロックン・ロール・ナンバーを集めたものだったのです。

a0038167_11524576.jpgこれを契機に彼らのブルーグラスは急速にプログレッシヴな様相を帯びてまいります。さらに1967年リリースのアルバム『尻尾にディーゼル』(Diesel On My Tail)はカントリー・ナンバーのトラック・ドライヴィング・ソング集となりました。こうした結果、レコードの売上げは飛躍的に伸び、彼らの変身は事実上の成功を収めます。

彼らは1969年までにエピック社からさらに2枚のアルバムをリリースしています。1枚は若い頃に大いに影響を受けたグループのナンバーを集めたアルバム『ルーヴィン・ブラザーズに敬意』(Saluting The Louvin Brothers)というものです。もう1枚は『列車が大好き』(We Like Trains)というカントリーではお馴染みにトレイン・ソング集でした。

しかし売上げに伴ってその音楽性に制約を受けることとなります。そこで彼らはエピック社を離れ、1970年を境にブルーグラスへの回帰を図ることにしました。


[PR]
by scoop8739 | 2018-05-31 11:54 | Road To New Grass

284 「ニューグラス」への道(その3)

オズボーン・ブラザーズの弛みない試み

オズボーン・ブラザーズは1960年2月にブルーグラス界では初めて大学のキャンパスで演奏したバンドでした。場所はオハイオ州にあるアンティオーク大学です。この時、大学での観衆はブルーグラスをフォーク・ミュージックの一つとして捉え、バンドの演奏の素晴らしさに驚嘆しました。

このカレッジ・コンサートでの成功は多くのブルーグラス・バンドをフォーク・マーケットへ送り込むこととなり、その結果、彼らはフラット&スクラッグスと共にフォーク・ファンをブルーグラスへと駆り立てる原動力となりました。

ところが彼らが対象としていたのは常にカントリー・ミュージックを支えているファン以外の何者でもなかったのです。と言うのもフォーク・ファンの多くが少なからず移り気で、彼らの良き理解者、ファンにはなり得ないということをいち早く嗅ぎ取っていたからでした。

またそれ以上に、彼ら自身がフォーク・ファンの好む“ブルーグラスのオールディーズ”には興味がなく、専らオリジナル・ソングによるオリジナル・サウンドの発展に取り組みたいという、彼ら一流のクールな審美的好みがあったのです。

1960年代になると彼らはライブとスタジオ・ワークに電子楽器と打楽器を持ち込ます。このことがブルーグラスの音楽愛好家の間で小さな論争を引き起こしました。なぜなら、それまでのブルーグラス・バンドには楽器に電気を組み込んだものがなかったからで、これ以降も正統なブルーグラス・バンドではあまりやらない方法でした。

a0038167_09160270.jpg1963年にはデッカ・レコードと契約し、1965年8月に移籍第1作『ヴォイセス・イン・ブルーグラス』(Voices In Bluegrass)(DL74602)を発表してからの10年間、ほぼ1年1作のペースでアルバムを発表し、そのたびにセンセーショナルな話題を提起し続けます。

デッカ以前に所属していたMGMでの最後のアルバムとなった『カッティン・グラス』(Cuttin’ Grass)(SE4149)と前記『ヴォイセス・イン・ブルーグラス』で彼らはオズボーンズ・スタイルの“モダン・ブルーグラス”を完成させます。これはもちろんカントリー・ジェントルメンともフラット&スクラッグスとも違ったアプローチによるもので、洗練されたスマートな感覚のものとなりました。

a0038167_09101254.jpg続く1966年8月にリリースしたアルバム『アップ・ジス・ヒル&ダウン』(Up This HillDown)(DL74767)ではアコウスティック・サウンドにますます磨きがかかり、ソリッドでモダンなサウンドが耳に心地よく迫ってきます。

しかし彼らはその間にも既に新しい試みを始めていました。196510月のセッショッンには、ハーガス・ロビンス(Hargus Robbins)のピアノをフィーチャーしたカントリー・スタイルを取り入れ、カントリー〜エレクトリック・グラスへの傾斜を強めていきます。

このカントリーへの接近を決定的なものとしたのは翌1966年末にリリースされたシングル盤「The Kind Of Woman I Got」の成功でした。

この曲は従来のアコゥスティック・ベースに満足できずにエレクトリック・ベースを取り入れ、レイ・イーデントン(Ray Edenton)に加え、名手グラディ・マーチン(Grady Martin)をバックに、まことにブルーグラスらしからぬリズムと曲調でまとめられています。そしてこの曲がスマッシュ・ヒットを記録したことによって彼らのスタイルは決定的な変貌を成し遂げます。

さらに翌1967年春の「ロール・マディ・リヴァー」(Roll Muddy River)と、それに続く「ロッキー・トップ」(Rocky Top)の大ヒットによって彼らのカントリー・グラス・スタイルは完全に定着し、電気楽器と大出力アンプがブルーグラス界にも一般的なものとなったのです。


[PR]
by scoop8739 | 2018-05-29 09:19 | Road To New Grass

283 「ニューグラス」への道(その2)

ブルーグラス、“広義”と“狭義”のプログレッシヴ化

プログレッシヴ・ブルーグラスは純粋なブルーグラスとは異なり、アパラチアの起源から遠く離れた多くの異なる影響を受け、ジャズ、フォーク、ロックの要素を加え、他の国のスタイルとミックスしています。

多くのプログレッシヴ・ブルーグラス・バンドは、アコースティック・ベースの伝統的なブルーグラス・サウンドから出発して増幅された楽器も使用しています。ジャム・バンド・スタイルの即興もよく聞かれる要素です。

さて、「プログレッシヴ・ブルーグラス」(Progressive Bluegrass)というものを“広義”に解釈すれば、その歴史はビル・モンローにまで遡らなければなりません。彼は1940年代中盤のカントリー・シーンでの真のイノヴェーターと思われるのです。

その根拠にはビルは、当時の“オールド・タイム・ストリング・バンド”や、“兄弟ヒルビリー・デュエット”に飽きたらず、フラット・マンドリンを武器にスウィング(ドライヴ)するストンプ・ミュージックを考えつきました。

彼はブルース、ジャグ・バンド・ミュージックといった黒人系音楽と、南部白人ストリング・バンド、テキサスのウェスタン・スウィングなどに触発されたアコゥスティック・フュージョンを試みます。

過去、あまり聴くことの出来なかったブルージーなリックを前面に押し出したマンドリン演奏と自身のハイ・テナー・ヴォイスは、「プア・ホワイト・ブルーズ」の存在を明確にし、後にこのビルの特徴あるヴォーカルは「ハイ・ロンサム」と呼ばれるようになりました。

a0038167_13185646.jpg

彼の考えはさらに新たな幸運をもたらしました。ビルのバンドに加入したアール・スクラッグスが5弦バンジョーをそれまでのトラッド奏法からより昇華し前進させた歯切れの良い音の連続技、すなわち「スクラッグス・スタイル」と導き、ビルのバンド・キャラクターとして貢献します。

同じくレスター・フラットはギター奏法に「Gラン」を工夫し、また当時のヒルビリー・シーンでは珍しくあか抜けたヴォーカルを披露することになります。フィドルのチャビー・ワイズは今日でもブルーグラス・サウンドの中核となっているブルーズ・リックをビルのバンドに提供します。

これのサウンドこそが、“オーバー・ドライヴ感”を備えたエキサイティングなホット・アコゥスティック・ストリング・バンドである「ブルーグラス」の誕生に結びついたのでした。

ビル・モンローの歴史的な発明を“広義”の「プログレッシヴ・ブルーグラス」と捉えるのならば、そんなビル・モンローをリスペクトする1970年代初頭のフリーク達がたどり着いたオリジナルなサウンドこそが“狭義”の意味での「プログレッシヴ・ブルーグラス」と言えるのではないでしょうか。

この「ニューグラス」と呼ばれるプログレッシヴなブルーグラスが形作られるまでには、さまざまな音楽やバンドが互いに触発し合い影響し合って、新しいサウンドを模索していったのでした。


[PR]
by scoop8739 | 2018-05-24 13:19 | Road To New Grass

282 「ニューグラス」への道(その1)

チーズ・タッカルビ

a0038167_14245746.jpg

最近、巷で婦女子に人気のグルメに「チーズ・タッカルビ」というものがあります。

「ゴメン、何それ?」と言われる流行に疎いオジさんオバさんに、ちょいとこの料理の説明をしておきましょう。

まず「タッカルビ」から知っていただかないといけません。これは韓国語で「鶏カルビ」という意味です。韓国は春川市、最近では冬季オリンピックが開催されたピョンチャン近くの郷土料理なんだそうです。

ヤンニョム、コチュジャンで味付けした鶏肉を半日ほど寝かし、ざっくりと切ったキャベツ、サツマイモ、ニンジン、ネギなどの野菜と一緒にピリ辛く炒めた料理です。

具は店舗ごとに異なりますが、大きな鉄板で調理し、好みに合わせてトッポギ(韓国餅)や野菜を加えます。中には麺を入れたり、飯を入れてチャーハンのようにして食べることもあるそうです。

そんな「タッカルビ」は店にもよりますが、日本人にとっては辛くて食べづらい料理でした。ところが東京のコリアン・タウン、新大久保にある「市場(シジャン)タッカルビ」というお店がこれにチーズをトッピングして出したところ、辛さがまろやかになって一段と美味しくなるという噂が広まり、今では新大久保に女子高生が大挙して訪れていると言われています。

ちなみに、2017年「今年の一皿」の急上昇ワード賞にも「チーズ・タッカルビ」が選ばれているほどです。今ではあの「コストコ」でも定番商品となっています。

話は変わります。

少々強引な展開で戸惑われているとは思いますが、ブルーグラス・ミュージックなるものを「タッカルビ」に喩え、チーズを流行の音楽に置き換えて話を進めてみます。

韓国春川市の郷土料理とアメリカ南東部地方の郷土音楽。こういう持って行き方でなんとなくお察しが出来たのではと思いますが、一般的には“耳に馴染みにくい”音楽だった「ブルーグラス」を、チーズ、すなわち“今流行の音楽”でトッピングすることで大衆化させようとする動き、それが「1970年代初頭に起こったニューグラスのムーヴメント」でした。

この流れの源にあるものとは、フォーク・リヴァイヴァルのブームが去って、アメリカに英国からの音楽侵略(British Invasion)が始まった1960年代中期に遡らなくてはなりません。

1964年2月、ビートルズがアメリカに初上陸して以来、アメリカの音楽界は英国の侵略を受け続けることになります。フォーク・ソングやブルーグラスもそれまでは“温故知新”とばかりに栄華を極めていましたが、聴衆の嗜好が変わると一気に市場が冷え込んでいきました。

こうした中、アメリカのフォーク・シーン、とりわけニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジで活躍していたボブ・ディラン、ロジャー・マッギン、ジーン・クラークなどの多くのミュージシャンたちはそれに影響を受け、生き残りをかけた対抗手段として、エレクトリック・ギター、エレクトリック・ベース、ドラムスというロックの楽器編成(ただしアコースティック・ギターを併用する場合も多い)で演奏するようになります。これがフォーク・ロックの始まりでした。

当然ながらブルーグラス界でも同様に生き残りをかけてあらゆる手段がとられます。あるものは電気楽器を導入したり、またあるものはバンドにドラムスを加入させたり、一番多かったのは異ジャンルの音楽をレパートリーに混入させるという方法でした。つまり、「伝統的」(Traditional)なものから「前衛的」(Progressive)なものへの変化、対応が起こったのです。


[PR]
by scoop8739 | 2018-05-21 14:30 | Road To New Grass