人気ブログランキング |

323 「ニューグラス」への道(その40)

J.D.クロウの果敢なる取り組み

1937年8月生まれのジェイムズ・ディー・クロウはスクラッグス・スタイルのバンジョー奏者の中ではもっとも正当な後継者と言われ、ジミー・マーチンのデッカ時代初期のバンジョー奏者としてその名を轟かせていました。彼は1960年代後半に生誕地ケンタッキー州レキシントンに本拠地を移し「ケンタッキー・マウンテン・ボーイズ」といういささか古めかしい名前のバンドを結成し活動を始めます。

a0038167_09551154.jpgこのバンドには左利きのフィドラーのボビー・スローンに、ドイル・ロウソン(マンドリン)、ベテラン・シンガーのレッド・アレン(ギター)が加わり、1968年に「ブルーグラス・ホリデイ」というアルバムを残しています。

彼らは新旧交代の転換期にあったブルーグラス界において最高のオーセンティック・ブルーグラス・バンドの評価を得て、同時にベテラン・ミュージシャンの底力を見せつけ大いに話題となりました。しかし、残念ながらこのアルバムを最後にレッドがバンドを去ります。J.D.はすぐさまカリフォルニア生まれの若手マンドリン奏者ラリー・ライスをバンドに迎え、サウンドおよびレパートリーに一層の強化を図ったのです。

a0038167_09574435.jpgラリーはそれまで西海岸では少しは知られたモダン・ブルーグラスのバンドで演奏しており、ブルーグラスのスタンダード曲に加えて、当時の西海岸で流行していたフライング・ブリトゥ・ブラザーズのカントリー・ロックや、ディラン・ソングなどをレパートリーとします。これによりケンタッキー・マウンテン・ボーイズは演奏スタイルがぐっと新しくなります。ラリーの加入後に作られたアルバム「ランブリング・ボーイ」は変身後のもので、ラリーとレッドの年代的な差がそのまま現れているようです。

1971年になるとJ.D.の片腕的存在だったドイルがカントリー・ジェントルメンに移籍します。このタイミングで兄ラリーの誘いに応じてトニ−・ライスがブルーグラス・アライアンスを抜けバンドに入団してきます。アライアンスで培われたトニーの音楽センスはラリーやJ.D.の意識をも変えていきバンドは益々プログレッシヴな方向へと導かれていきました。

そして1972年夏にJ.D.は気分一新して、バンド名をいかにもニューグラス的な装いを凝らした「ニュー・サウス」と改め、同時に一気にコマーシャルに乗るためオズボーン・ブラザーズに習ってエレクトリック・ブルーグラスにイメージ・チェンジを図ります。

a0038167_09554843.jpgところがこの取り組みは時期尚早だったのか不評を買う結果となってしまいました。この間にレコーディングされたのが『ニュー・サウス』というアルバムでした。アルバムはリリースのタイミングを逃し1977年まで発売されませんでした。また、後にCD化された際にタイトルが『ブルーグラスの進化』(Bluegrass Evolution)と改められています。
バンドは起死回生を図るかのようにレキシントンの「ホリデイ・イン」に籠り、そこで沈黙の1年間を過ごしたのです。

1974年に再びフェスティバルに現れたニュー・サウスは、かつてのケンタッキー・マウンテン・ボーイズ時代の小気味よいモダンなスタイルが鮮やかに復活していました。トニーのギター・ワークも年相応の重みと貫禄が漂い、レスター・フラットに傾倒しているというそのリズム・ギター、クラレンス・ホワイトから得たブルージーなリード・ギターも一層の磨きがかかったものとなっていました。
by scoop8739 | 2018-10-09 10:04 | ニューグラスへの道 | Comments(0)
名前
URL
画像認証
削除用パスワード
<< 324 「ニューグラス」への道... 322 「ニューグラス」への... >>