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296 「ニューグラス」への道(その15)

サイケデリック・ロック期に一瞬輝いた伝説的なバンド(後編)

時系列が逆になりますが、196611月にLAのナイト・クラブ「パンドラ・ボックス」の閉鎖に抗議してサンセット・ストリップに集まった若者の群衆に対して警察が治安目的で働いた暴力的行為を目撃したスティルスは、彼のエポック・メイキングとなる曲「価値あるもののために」(For What It’s Worth)を書きました。

バンドはすぐにハロウィンの夜の「ウィスキー・ア・ゴーゴー」のステージでこの曲を演奏し評判を得ると、数日後にはレコーディングされロサンゼルスのラジオ局KHJから流されました。

a0038167_09211238.jpgこの曲は翌年の3月までには全米でトップ10入りし、アトコ・レーベルは急遽ファースト・アルバム収録の「ベイビー、叱らないで」(Baby Don't Scold Me)とこの曲を入れ替え、ファースト・アルバムを再リリースしたところ、最終的には100万枚を売り上げてゴールド・ディスクに輝きます。

1967年1月、グループはニューヨークに遠征しドアーズも出演するクラブ「オンディーヌ」に出演しますが、このツアーでパーマーがマリファナ所持で逮捕されカナダに強制送還されという事態に陥ります。

レコーディングやライブのためにアメリカの両岸を行き来していたバンドには多くのベーシストがセッション・メンバーとして参加し、その中には「マザーズ・オブ・インヴェンション」のジム・フィルダーもいました。テレビ出演の際などにはあらかじめ録音しておいた音源を流し、ロード・マネージャーがベースを抱えて当て振りをして乗り切ったそうです。

こういった状況のもと、次のアルバムの制作はとても難航します。バンドはプロデューサーのグリーン、ストーンと対立し、またヤングとスティルスも何かにつけて口論を繰り返します。2人はそれぞれ自分がアルバムをプロデュースすることを主張し、ファースト・アルバムでは曲を提供しなかったフューレイがヤングと同じ数の曲をこのセカンド・アルバムのために書いています。

a0038167_09213219.jpg2枚目のアルバムとなった『バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン』はグループというより個々のメンバーの仕事の集合としてバンドの最高傑作となりました。またアルバムの反応もよく、ビーチ・ボーイズに同行するツアーで全米を回りバンドの状況は上向いているように見えました。

しかし、1968年1月にパーマーが薬物不法所持のため再び強制送還され、せっかくの活動に水を差します。グループは後任にジム・メッシーナを加入させますが、パーマーがいなくなったのに続いてヤングも徐々にグループから離れてゆき、しばしばスティルスがライブですべてのリード・ギター・パートを弾くはめになりました。

レコーディングは、3月の終わりまでにメッシーナのプロデュースで予定通り行われましたが、グループの解散は間近に迫っていました。

結局、彼らはこの年の5月に解散しますが、この2年間で大きな商業的成功は得られなかったものの、密度の高い、調和のとれた良質の作品を生み出しました。加えて、1970年代以降の音楽シーンの第一線で活躍する人材を多く輩出したバンドとして今でも語り継がれています。


by scoop8739 | 2018-07-02 09:23 | ニューグラスへの道 | Comments(0)
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