318 「ニューグラス」への道(その35)

異才ジョン・ハートフォードが「ニューグラス」に与えた影響

ソングライターとして「ジェントル・オン・マイ・マインド」を提供するなど初期のグレン・キャンベルを全面サポートし、バーズのアルバム『ロデオの恋人』へも参加するなど、ソングライター、マルチ・プレイヤーとして異才ぶりを発揮したのがジョン・ハートフォードでした。

彼は19371230日、ニューヨークに生まれ、セントルイス、ミズーリで幼少時を過ごします。そこで彼は音楽的な影響の多く受けました。

初期の影響はナッシュビルのグランド・オール・オープリーの放送からで、アール・スクラッグス(Earl Scruggs)のスリー・フィンガー・スタイルのバンジョー演奏でした。ハートフォードが 13歳になる頃には熟練した昔ながらのフィドルとバンジョーの名手となっていました。またすぐにギターとマンドリンを演奏することも学んでいます。そしてジョン・バロウズ高等学校に留学中に初めてのブルーグラス・バンドを結成します。

高等を卒業後、セントルイスにあるワシントン大学に入学し4年間で商業芸術プログラムを修了しますが、音楽に専念するためにそれを中退し現地で音楽シーンに専念します。そこではDJとして活動したり、バンドで演奏したり、時には地元レーベルにシングル盤を録音しています。

1965年に彼はカントリー音楽業界の中心であるナッシュビルに移ります。1966年にRCA ビクターと契約し、同年にファースト・アルバム『ルックス・アット・ライフ』(Looks at Life)を制作しています。

a0038167_09020848.jpg1967年に、彼は2枚目のアルバム『地球と音楽』(Earthwords Music)で「ジェントル・オン・マイ・マインド」(Gentle On My Mind)を生み出します。

この曲はグレン・キャンベル(Glen Campbell)の耳に留まり、グレンの歌によって1968年のグラミー賞で4つの賞を獲得します。そのうち2つはハートフォード自身に贈られました。

この曲はそれまでのカントリー・ソングの中で最もヒットしたものとなり、その結果、得た印税で彼は自由を買ったと言っています。

人気が高まるにつれて彼は西海岸に移ります。そこではコメディー・ショーに出演したり、バンジョーを演奏したり、ガスリー・トーマスの歌 「ラッキーになるよ」(I'll be Lucky)でヴォーカル・ハーモニーを歌いました。彼はまたロマンス(The Romance)のアルバム『恋人』(Sweetheart)ではバーズと演奏をしています。

コメディー・ショーでの成功で、テレビの探偵シリーズの主役を務めたりもしましたが、彼はナッシュビルに戻り音楽に専念するようにします。

a0038167_09021880.jpg1968年から1970年までに彼はRCA4枚のアルバム、『ラヴ・アルバム』(Love Album)、『住宅プロジェクト』(Housing Project)、『ジョン・ハートフォード』(John Hartford)、『アイアン・マウンテン・デポ』(Iron Mountain Depot)を残しています。

1971年になって彼はワーナー・ブラザーズ・レコードに移籍し、ヴァッサー・クレメンツ、タット・テイラー、ノーマン・ブレイクらと共に伝統的なスタイルで録音する自由を与えられました。

a0038167_09022996.jpgそこで彼は、1971年にアルバム『エアロ・プレイン』(Aereo-Plain、デヴィッド・ブロンバーグがプロデュース)を、翌1972年には『モーニング・ビューグル』(Morning Bugle、ジョン・サイモンがプロデュース))をリリースします。これらのアルバムは、数多い彼のアルバムの中でも最高傑作となりました。

アルバムでは古典的なヒルビリー芸をヒップでぶっ飛んだアコースティック・モードのもとに全面展開しています。これはハートフォードの型破りな個性が全開した超名盤として今でもブルーグラス史に燦然と輝いています。

この2枚のアルバムは今では、「ニューグラス・リヴァイヴァル」のような若手のバンドが、新しいスタイルを創造する時代の初めに最も影響力のあったアルバムだと考えられています。

サム・ブッシュ自身も、「このアルバムが誕生していなければ、ニューグラス・ミュージックは出来ていないだろう」とも語っています。


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# by scoop8739 | 2018-09-20 09:04 | Road To New Grass