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237 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (72)

ジョン・ダフィの退団とその後。

ついにその日がやってきました。ジョンは1969年初めにカントリー・ジェントルメンを辞めることを決断します。

その後残されたメンバーはジョンの抜けた穴を若手マンドリン奏者のジミー・ゴウドローで埋め、彼の築いた路線を継承します。

しかしエディが抜け、さらにジミーも抜けると、チャーリーはバンジョーに創成メンバーのビル・エマーソンを呼び戻し、マンドリンにはJ.D.クロウのグループにいたドイル・ロウソンを誘い、さらにベースにビル・イエイツを加えてカントリー・ジェントルメンを伝統的なオーセンティック・ブルーグラスへと変身させて行きます。

一方、ジョン・ダフィは楽器の修理を生業とし、しばらくは音楽活動を休止していたのですが、またぞろ演奏への意欲が湧き出すと、クリフ・ウォルドロンのバンドの主力メンバーと共にセルダム・シーンというさらに革新的なバンドを組みあげます。

まず始めはワシントンD.C.で活躍していたバンジョー奏者のベン・エルドリッジが、彼の自宅地下で毎週ジャムセッションを始めます。このセッションには、ギターとリード・ボーカルのジョン・スターリング、ドブロとバリトン・ボーカルのマイク・オゥルドリッジ、そして以前カントリー・ジェントルメンのメンバーだったベースのトム・グレイが参加します。セッション・メンバーのマイク・オゥルドリッジは、バンドをより前進させようと思いジョン・ダフィをジャム・セッションに招きます。

そして試しに、彼らは地元のクラブで週に1夜だけ出演し、週末にはコンサートやフェスティバルで時々演奏し始めます。

バンドが上手く機能し始めると、彼らはワシントンD.C.にある小さなクラブで6週間プレイした後に、19721月頃からメリーランド州ベテスダにあるライヴハウス「レッド・フォックス・イン」をフランチャイズとしてライヴ活動を始めました。

メンバー全員が日々の仕事を持っているために、このグループは自らを“めったに姿を見せないバンド”との意味を込めて「セルダム・シーン」(Seldom Scene)と名付けます。

シーンのサウンドはブルーグラスを基盤にして、カントリー、ロックン・ロール、フォークの影響を受けた革新的なものでした。コンサートの出演やレコーディングは稀にしか行わず、そういう噂がさらにグループの人気を高め、1974年までに彼らはミュールスキナー・ニュース誌の読者投票でブルーグラスのトップ・バンドに選ばれます。

ジョン・ダフィはそれまでのうっぷんを晴らすかのようにプログレッシブな選曲で、強力なテナー・ボイス、パワフルなマンドリン演奏を展開します。加えてメンバーの驚異的なステージ・テクニックが新しい世代のファンや仲間たちを魅了したのでした。

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「モダン・ブルーグラスの旗手」と言われたジョン・ダフィの新たなるステージの幕が上がったのです。

この続きはいずれまた。(終わり)


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by scoop8739 | 2017-11-21 10:51 | カントリー・ジェントルメン

236 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (71)

レベルでの録音(26)

それではいよいよあと4曲です。

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B面の3曲目「エル・デド」(El Dedo)はエディ作のインスト曲です。以前レコーディングした「ブルー・ベル」と同じような雰囲気を持つこの曲で、エディ節と言われるギャロッピング奏法をたっぷり聴かせてくれます。

4曲目「メリー・ディア」(Mary Dear)はアンドリュー・スターリングとヘンリー・ティルザー(Andrew B. Sterling & Harry Von Tilzer)の共作で、1929年にチャーリー・プールとノース・キャロライナ・ランブラーズ(Charlie Poole& North Carolina Ramblers)がレコーディングしています。またジェントルメンの友人であるビル・クリフトンもレパートリーにしていました。ジェントルメンの他のバージョンとしては、ライヴ・アルバム「ゴーイング・バック・トゥ・ザ・ブルーリッジ・マウンテンズ」にも収録されています。

5曲目「ブルーリッジ・マウンテン・ホーム」(Blue Ridge Mountain Home)は、フラット&スクラッグスが、「新聞売りのジミー少年」(Jimmy Brown, The Newsboy)とカップリングでリリースされ、その後、アルバム「フォギー・マウンテン・ジャンボリー」(Foggy Mountain Jamboree)に収録されて以来、この曲もブルーグラスの定番曲となっています。アパラチアン山脈の支脈ブルーリッジにある我が家を偲んで、自分の死後にはその傍に埋めて欲しいと歌います。典型的なブルーグラス・ソングですが、間奏のバンジョーはまるで意に介さないかのように自在に演奏しています。

澱みなく流れるようなスリー・フィンガー・バンジョーで始まる6曲目「救いの舟」(Take Me A Lifeboat)もまたフラット&スクラッグスのレパートリーで、マーキュリー盤に収録されていた曲です。「私を貴方の命の舟に乗せてください。それは荒海にもびくともしないでしょう。さぁ兄弟よ、姉妹よ、眠らずに日夜お祈りしなさい。神様の命の舟に乗せていただけるように」と、セイクレッド曲の常套としてクアルテット・コーラスで歌われます。

このアルバムは、196810月に本国アメリカでリリースされます。ちなみに日本盤は、前作「ザ・トラベラー」から6曲、本作から8曲の編集盤として、1970年2月にジョンのバンド離脱を悲しむかのように「ラスト・アルバム」というタイトルで発売されています。


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by scoop8739 | 2017-11-17 14:21 | カントリー・ジェントルメン

235 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (70)

レベルへの録音 (25)


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チャーリーの低音で渋いヴォーカルで始まるA面5曲目「バナナボートの唄」(The Banana Boat Song)は、あの「デーオ、デイ・エイ・エイ・エイ・オー」と歌われる、メジャー・リーグでの野茂英雄のテーマ曲にも使われたことのある有名なジャマイカの港湾荷役夫の労働歌です。歌詞の内容は、「もうじき日が昇る。オイラはつらい仕事を終えて家に帰りたいんだ。伝票をつける人よ、早くバナナを数えてくれ」というものです。最もよく知られているバージョンは、1956ニューヨーク出身の黒人歌手ハリー・ベラフォンテが歌ってヒットしたものでした。ジェントルメンはチャーリーのリード・ヴォーカルを追いコーラスが続きます。エディがバンジョーの表面をドラムのように叩きアクセントをつけています。

6曲目の「レースへ行こう」(Going To The Races)は、ジェントルメンの記念すベき第1弾シングル盤に収録されていた曲で、ライヴ・アルバム「ゴーイング・バック・トゥ・ザ・ブルー・リッジ・マウンテンズ」(Going Back To The Blue Ridge Mountains)でも披露されています。この曲をジョンにとっての最後のアルバムに持ってきたというところに、とても感慨深いものがあります。ジョンのテンションの高いボーカルに続いて典型的なブルーグラスのトリオ・コーラスとなります。マンドリン・プレイにも圧倒されます。

引き続きB面1曲目「帰る少年たちを待って」(Waiting For The Boys To Come Home)はマック・ワイズマンが歌って有名になった、これから戦いに出る青年たちを見送る歌です。「我々は神の加護を信じて、彼らの帰りを待とう。遠からず、波涛を越えて、凱旋してくる彼らの笑顔を見る日まで、この灯台からかがり火をかかげ続けよう」と輪唱で歌われます。作者はルーサー・プレスリー(Luther G. Presley)という人で、有名なところでは「聖者の行進」(When The Saints Go Marching In)の作詞もしています。ジェントルメンの演奏はまるでセイクレッド曲であるかのように歌っています。

2曲目はマンドリンのトレモロから始まるスロー・ナンバー「リトル・ジョー」(Darling Little Joe)です。この曲はアメリカ南東部地方の古民謡で、不治の病に伏す少年ジョーの清らかな悟りの境地を美しく綴っていて、カーター・ファミリーがレパートリーとしていました。ジェントルメンは全編トリオ・コーラスで歌っています。


次回はB面の残り4曲です。


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by scoop8739 | 2017-11-13 17:44 | カントリー・ジェントルメン

234 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (69)

レベルへの録音 (24)


ジョンの最後となったレコーディングは、1969年3月16日、かつてアルバム「旅する人」(The Traveler)に収録した「ベイビー・ブルー」、「マッターホルン」をレコーディングしたメリーランド州バルチモアにある「レコーディングス・Inc.」でした。

11年間に亘りバンドのカラーを作り、またバンドを牽引してきたジョンにとって最後のアルバムとなった「そのようにやりなさい」(Play It Like It Is)は、まさしく彼のブルーグラスに対する想いを伝えるタイトルになりました。それではアルバムの収録曲目を紹介しましょう。a0038167_17403983.jpg
A
1.「彼は友だちだった」(He was A Friend Of Mine)
2.「ディキシーの夜明け」(Daybreak In Dixie)
3.「あの良き日々」(Some Old Days)
4.「ラギー・マウンテン・シェイクダウン」(Raggy Mountain Shakedown)
5.「バナナボートの唄」(The Banana Boat Song)
6.「レースへ行こう」(Going To The Races)
B
1.「帰る少年を待って」(Waiting For The Boys To Come Home)
2.「リトル・ジョー」(Darling Little Joe)
3.「エル・デド」(El Dedo)
4.「メリー・ディア」(Mary Dear)
5.「ブルーリッジ・マウンテン・ホーム」(Blue Ridge Mountain Home)
6.「救いの舟」(Take Me In A Life Boat)

A面の1曲目「彼は友だちだった」(He was A Friend Of Mine)はボブ・ディランのブートレグ集にも収録されているアメリカの古いフォーク・ソングです。初めて録音されたのはアフリカ系アメリカ人の受刑者であったスティーブン・ケーシーのもので、後にバーズやウィリー・ネルソンもレコーディングしています。間奏でのブロック・コードを使ったエディの演奏が面白い味を出しています。

2曲目の「ディキシーの夜明け」(Daybreak In Dixie)は、ライヴ・アルバム『ゴーイング・バック・トゥ・ザ・ブルー・リッジ・マウンテンズ』(Going Back To The Blue Ridge Mountains)でも演奏されているように彼らのライヴ・パフォーマンスの必須曲であり、またどのブルーグラス・ミュージシャンにとっても定番曲です。ジョンの火の出るようなマンドリン演奏は勿論のことですが、エディのオーソドックスなスリー・フィンガー・スタイルのバンジョー演奏にも感心致します。

3曲目「あの良き日々」(Some Old Days)は、「俺は今、鎖に繋がれたまま、雨に打たれて働かされている身だけれど、いつかきっと、この刑務所から出て、君の元に返って行くよ。君もまた、その日を待ってて欲しい」と、レスター・フラットの歌唱で有名な囚人歌です。作者はルイス・サータイン(Louise Certain)とグラディス・ステーシー(Gladys Stacey)で、フラット&スクラッグスがアルバム「フォギー・マウンテン・ジャンボリー」(Foggy Mountain Jamboree)を発売して以来、ブルーグラスの定番曲となっています。ジョンの張りつめたリード・ヴォーカルが絶品です。

4曲目の「ラギー・マウンテン・シェイクダウン」(Raggy Mountain Shakedown)は、ジョン作のインスト曲で、いつものようにジョンとエディの絡みが素晴らしい曲です。ここでもエディはジェントルメン加入から約10年、とても上達したスリー・フィンガー奏法で演奏しています。

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by scoop8739 | 2017-11-10 17:44 | カントリー・ジェントルメン

233 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (68)

ジョン・ダフィの決意

 かつてカントリー・ジェントルメンは、彼らのホーム・グラウンドにしているアメリカ東部の都市部では大学生を中心に絶大な人気を誇っていました。

 時代は移り、ビートルズに端を発したブリティッシュ・インヴェージョン(British Invasion=イギリスの侵略)の影響を受けたアメリカのポピュラー音楽界は、新しい音楽“フォーク・ロック”や“サイケデリック・ロック”という形で対抗を始めます。

 その頃、アメリカによるベトナム侵攻に反対する学生運動が、これに呼応するかのように新しい音楽を求めるようになりました。アメリカ各地で行われる反戦運動で、音楽演奏はフォーク・ロックやもっとヘビーなロックへと変わって行きます。

 次第にカントリー・ジェントルメンの音楽は東部の学生層に指示されなくなり始めます。やがてジェントルメンはその活動の軸足をフェスティバルに求めるようになりました。

 ところがブルーグラス音楽の盛んな南東部地方では、ボブ・ディランを始めフォーク・ソングをアレンジしたようなスタイルはあまり好まれませんでした。フォーク・ソングのリスナーたちが伝統主義に対する考えを緩めるにつれ、皮肉なことにブルーグラスの世界は自ら意識してその境界を定義し始めます。そして次第にジェントルメンはフェスティバルに招かれなくなります。

 メンバーの生計は音楽活動で成り立っていたので、ジョンの目指す音楽的志向は彼らの経済環境に決していい影響を与えるものではありませんでした。ジョンのプログレッシブな志向に嫌気がさしたのか、チャーリーの音楽志向は次第に伝統的なものへと傾いて行きます。グループの目指す方向が曖昧になり始めました。

 こうしてジョンはリーダーとしての責任感からか、また一説には、“飛行機に乗るのが嫌だ”との理由から日本での公演をキャンセルした責任を取ってとの噂もありましたが、1969年の初め、状況の打破に疲れてカントリー・ジェントルメンを辞めることを決意したのです。


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by scoop8739 | 2017-11-06 10:22 | カントリー・ジェントルメン

232 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (67)

レベル社からシングル盤とアルバムをリリース。そして我が国でも。

こうして録音された曲は、アルバム発売の前に次々とシングル盤でリリースされます。

まず1967年5月に、アルバム「不思議な少女」(Bringing Mary Home)に収録されていた「リパブリック讃歌」(Battle Hymn Of The Republic)と、「マッターホルン」(Matterhorn)とのカップリング盤(Rebel F-267)です。

続いて1968年2月には、「バッファロー・ガールズ」(Baffalo Girls)と、「南部の兵士」(Johnny Reb)のカップリング(Rebel F-275)でリリースされます。

そして同年4月には、「ボーダー・アフェア」(A Border Affair)と、「栄光への脱出のテーマ」(Theme From Exodus)とのカップリング(Rebel F-285)でリリースされました。

さらにアルバム「旅する人」(The Traveler)が発売されたのは1968年4月のことでした。曲順は以下の通りです。

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A

1.「ボーダー・アフェア」(A Border Affair)

2.「南部の兵士」(Johnny Reb)

3.「旅する人」(The Traveler)

4.「ベイビー・ブルー」(It’s All Over Now, Baby Blue)

5.「栄光への脱出のテーマ」(Theme From Exodus)

6.「かの地への求道」(I’m Working On A Road To Gloryland)

B

1.「美しき人生」(A Beautiful Life)

2.「多くの道程」(Many A Mile)

3.「マッターホルン」(Matterhorn)

4.「バッファロー・ガールズ」(Baffalo Girls)

5.「暗い炭坑の中で」(Dark As A Dungeon)

6.「アメリア・エアハートの物語」(Amelia Earhart’s Last Flight)

さて我が国では、1967年4月にジェントルメンとしては6枚目のアルバム「イン・コンサート」(London SHL-86)が発売されます。このアルバムは彼らのライヴの模様を収めたテープをフォークウェイズ社に持ち込んで作られたものでした。

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この時点では、本国アメリカでの発売見通しがなかったために、世界初のリリースとなっています。

アメリカ盤がリリースされたのは、日本盤の発売から遅れること、なんと6年後の1973年6月のことでした。そのタイトルは「ゴーイング・バック・トゥ・ザ・ブルー・リッジ・マウンテンズ」(Going Back To The Blue Ridge Mountains)。カントリー・ジェントルメンのファンにとっては、待つ首が伸びすぎるほど、あまりにも遅いリリースでした。

なお、日本盤「イン・コンサート」の4ヶ月後に、7枚目のアルバム「オハイオの岸辺で」(London SHL-93)が発売されます。これはアメリカ盤の「不思議な少女」(Bringing Mary Home)の曲順を変えて、日本独自の編集をしているものでした。


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by scoop8739 | 2017-11-02 16:16 | カントリー・ジェントルメン