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212 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (50)

レベルへの録音 (10)

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それではレベル社でのカントリー・ジェントルメン初のオリジナル・アルバム「不思議な少女」(Bringing Mary Home)A面曲から始めましょう。

1曲目はアルバム・タイトル曲「不思議な少女」(Bringing Mary Home)です。端的に申しますと、この曲は怪談話です。深夜、道で拾った少女を車に乗せて、彼女の家まで送って行ったところ、後部座席に座っていたはずの女の子がこつ然と消えていた、というものです。真夏の夜にローソクの灯り1本立てて聞かせる話としては最高なのですが、不思議と音楽に載っけると妙に爽やかになります。この曲は1963年9月に行ったビル・クリフトンのレコーディング・セッションでも収録されています。ただし、ジェントルメン・ヴァージョンは歌詞が少し違います。作者としては、チャウ・マンク、ジョン・キングストンと共にジョン・ダフィの名がクレジットされています。

2曲目「川の向こうで」(Down Where The River Bends)はセイクレッド曲です。この曲は1941年にカントリー・デュオのジョニー&ジャックによって歌われています。内容は、戦場に向かう兵士がその恋人に、「たとえ死んでも二人の心は寄り添って離れることはない。また川の向こうで会える」という最後の別れを歌っています。ジェントルメンは、レッド・アレンとオズボーン・ブラザーズが歌っているのを聴いて、この曲を知ったと言います。

3曲目はインストルメンタル曲「リパブリック讃歌」(Battle Hymn Of The Republic)です。この曲は南北戦争時代の北軍の軍歌で、我が国では「おたまじゃくしは蛙の子」と歌われ親しまれています。作者は熱烈な反奴隷制度賛同者のジュリア・ウォード・ハウ夫人です。この曲をエディとジョンがアレンジし演奏しています。

続く4曲目「オハイオの岸辺で」(Banks Of The Ohio)は、南東部山岳地帯に伝わる民謡曲です。結婚してくれないという理由で恋人を殺して、オハイオ川に投げ捨てた男の殺人歌です。古くはG.B.グレイソンとヘンリー・ウィッターのデュエット盤が残されています。1930年代にはポピュラーとなり、モンロウ・ブラザーズやブルー・スカイ・ボーイズなど、兄弟デュエットでカヴァーされました。ジェントルメンはチャーリーのリードで歌われます。

ということで、今回はこの辺で。


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by scoop8739 | 2017-08-28 15:51 | カントリー・ジェントルメン

211 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (49)

レベルへの録音 ()

ライヴ・アルバム「ゴーイング・バック・トゥ・ザ・ブルー・リッジ・マウンテンズ」(Going Back To The Blue Ridge Mountains)のレコーディングから約3ヶ月。年が変わって1965年2月232425日の3日間、カントリー・ジェントルメンはニューヨーク州シラキュースにある同大学内の「レコーディング研究所」(The Recording Lab)に於いて、レベル社のための初めてのオリジナル・アルバム制作に取りかかります。

この時レコーディングされたものの中から、先行して「不思議な少女」(Bringing Mary Home)と「ノースバウンド」(Northbound)がカップリングされて、1965年7月にシングル盤リリースされました。

このシングル盤は、ブルーグラス系にもかかわらず、ビルボード誌「ホット・カントリー・シングルス」では19651030日号から4週間、下位ながら「50位、49位、46位、43位」とランキングされるという思わぬヒットになっています。

さてアルバムの方ですが、(この時点で)幻のアルバムとなっている「ナッシュヴィルの監獄」のレコーディング時に選曲されていた3曲を含む13曲のうちの11曲と、同アルバムのレコーディング時に録音しておいた「ブラウン・マウンテン・ライト」を足した合計12曲で、そのまま新しいアルバムが作られます。そのアルバム・タイトルが「不思議な少女」(Bringing Mary Home)でした。

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このアルバムは1966年7月にアメリカで発売され、日本盤は翌1967年8月にキング・レコードより「オハイオの岸辺で」(London SLH-93)というタイトルで発売されています。

それでは発売時の曲順でご紹介しましょう。

A

1曲目「不思議な少女」(Bringing Mary Home)

2曲目「川の向こうで」(Down Where The River Bends)

3曲目「リパブリック讃歌」(Battle Hymn Of The Republic)

4曲目「オハイオの岸辺で」(Banks Of The Ohio)

5曲目「ブラウン・マウンテン・ライト」(Brown Mountain Light)

6曲目「ノースバウンド」(Northbound)

B

1曲目「住む所とてなく」(This World’s No Place To Live)

2曲目「北国の少女」(Girl From The North Country )

3曲目「風吹きすさぶ国」(A Cold Wind Blowing)

4曲目「スパニッシュ・ツー・ステップ」(Spanish Two Step)

5曲目「アンクル・ジョー」(Uncle Joe)

6曲目「光を求めて」(Let The Light Shine Down)

ジェントルメンがしばらくライヴのレパートリーとしていた曲を中心に、新しく加えた曲での構成となっています。


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by scoop8739 | 2017-08-25 16:19 | カントリー・ジェントルメン

210 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (48)

フォークウェイズへの録音 (14)

いよいよアルバム「ゴーイング・バック〜」も最終コーナーを曲がるところとなりました。

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B面5曲目「悲しく、せつない日」(Sad And Lonesomeday)は、1938年にアルトンとレイボンのデルモア・ブラザーズによって演奏され、これに歌詞を付けて歌ったのがレッド・スマイリーでした。しかしブルーグラス・アレンジとしての決定打はレッド・アレンのアルバム「キープ・オン・ゴーイング」(Keep On Going)収録されているものでしょう。このような白人系カントリー・ブルースは、16小節型4行詞で、1行目から3行目までが同じ文句になっているのが普通です。ジェントルメンは名盤「フォーク・セッション・インサイド」において初録音し、以来、ライヴの定番曲となっています。

6曲目「クリプル・クリーク」(Cripple Creek)はブルーグラスの定番曲となった古いバイオリン曲です。1920年代から40年代にかけて、フィドル奏者の間では一般的に演奏されていました。ビル・モンロゥ、フラット&スクラッグス、リノ&ハーレル、スタンレー・ブラザーズなど大物たちも取り上げています。ジェントルメンのは最初はゆっくりとバンジョーのイントロから始まり、「クルプル・クリークへ昇って行こう。面白いよ。ズボンを膝までまくり上げ、行こうヨ、行こうヨ」と少しだけ歌い、続いてエディのバンジョーが弾むように続きます。ジョンのマンドリンも負けてはいません。続くエディは珍しくクロマティック・スタイルのバンジョーも聴かせてくれます。

7曲目「恋の道は…」(Don’t This Road Look Rough & Rocky ?)は、戦いに向かう兵士の別れの歌で、ヴァースの部分は兵士の言葉、コーラス部(リフレイン)は妻の言葉と考えられます。リフレインの「赤子をいとおしいと思わないでください。私がこの腕に抱えて、大事に寝かせていますから」という、妻から夫への激励の言葉が強い感銘を与えます。かつてはビル・モンロゥによって歌われていて、一方ジェントルメンは始めから終わりまで3部コーラスで歌われます。

さていよいよゴールに向かってムチが入りました。熱戦、いや熱の入った解説に期待しましょう(?)

8曲目の「ミュールスキナー・ブルース」(Muleskinner Blues)は、ラバ追いのカウボーイ・ソングです。数多くのカントリー・ヨーデルを書いたジミー・ロジャースが初めて書いた「ブルー・ヨーデル」ナンバーで、ビル・モンロゥが初めてブルー・グラス・ボーイズを結成した時に録音した曲でもあります。以来、彼の定番曲として有名になっています。

ところで話は変わりますが、1973年のある日、ビル・モンロゥがロサンゼルスのテレビ局KCETでのショー出演のためにツアー・バスで向かっているところ事故に遭遇し、ショーそのものが制作できなくなるという危機を迎えます。

その穴を埋めるべくテレビ局はロス在住のブルーグラス・ミュージシャンに連絡を取り、急遽セッション・バンドを組み立てて番組を作ることとなりました。

そこに呼ばれたのが、リチャード・グリーン、ピーター・ローワン、ビル・キースというモンロゥゆかりの人たちを中心に、モンロゥ・フリークで有名なデヴィッド・グリスマン、バーズ解散後フリーとなっていたクラレンス・ホワイトという、その当時ロックをやっていたミュージシャンばかりを集めたのです。

この急場仕立てのバンド名がなんと「ミュールスキナー」でした。番組は無事放映され、こと無きを得たのですが、この連中はその余韻からか番組終了後にレコーディングを画策し、結果、1枚のアルバムを残します。これが名盤「ミュールスキナー」(Mule Skinner)でした。

話が違うところに行ってしまいましたが、ジョンのビル・モンロゥを凌駕するようなハイテンションのヴォーカルが炸裂します。それを煽るかのようにエディのバンジョーが続きます。曲も最高潮に達したところで歌い終わると、客席からしばしアンコールの声が飛び交います。実際のステージでは、きっとこの後にアンコール曲が何曲か歌われたことでしょう。

ということで、珍解説も途中でムチの入れどころを間違えた箇所がありましたが、無事落馬せずにゴールしたようです。

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なお、米国版「ゴーイング・バック〜」は1973年9月にやっとLPが発売されました、また、日本盤「イン・コンサート」は、197410月に再編集(2曲カット)されて再発売されています。さらに「ゴーイング・バック〜」は、ファンの誰もが忘れていた頃の2007年5月になって初めてCD化されています(アルバム・デザインがオリジナル盤と違っています)。


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by scoop8739 | 2017-08-22 17:08 | カントリー・ジェントルメン

209 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (47)


フォークウェイズへの録音 (13)

ではアルバム「ゴーイン・バック〜」(長いので省略)のB面曲を紹介致しましょう。

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1曲目は「ブラウン・マウンテン・ライト」(Brown Mountain Light)は、前アルバム「ナッシュヴィルの監獄」(この時点ではまだ未発表でした)の5曲目に収録される予定でした。この曲はルル・ベルとスコット・ワイズマンの共作で、1960年代初期にキングストン・トリオによっても歌われヒットしています。また後には、クリス・ヒルマンの持ち歌としてヒルメン(The Hillmen)やバーズ(Byrds)、フライング・ブリトゥ・ブラザーズ(The Flying Burrito Brothers)にも持ち込まれました。歌の内容は、西ノース・キャロライナ地方に実在する実名の山の頂上で見られる不可解な灯りの起源を説明したものです。

「私たちは石器時代のビートルズです」とバンド紹介して始まる2曲目「エレクトリシティ」(Electricity) も前作同様、「ナッシュヴィルの監獄」3曲目に収録される予定でした。この曲は1951年にアラバマ州出身の歌手ジミー・マーフィーによって自作自演されました。なおこの曲は、エディがグループに持ち込んだようで、チャーリーがリード・ギター・プレイヤーとしての才能を遺憾なく発揮しています。

続く3曲目「ディキシーの夜明け」(Daybreak In Dixie)は、別名「バンジョー・イン・ザ・ヒルズ」(Banjo In The Hills)とも題され、ブルーグラスの世界では知らない人のいない定番インスト曲となっています。1957年にスタンレー・ブラザーズ&クリンチ・マウンテン・ボーイズのメンバー、ビル・ネイピアによって書かれ録音されています。ラルフのバンジョーと作者ビルのマンドリンの掛け合い同様、エディとジョンの激しいバトルが繰り広げられます。

サザン・オール・スターズの往年の名曲に題名だけ似た4曲目は「いとしのメリー」(Mary Dear)です。第一次世界大戦時の歌で、チャーリー・プールと彼のグループのギタリスト、ロイ・ハービーの作となっています。この曲のオリジナルのひとつにジーン・オートリーが歌ったものもありました。またジェントルメンの友人のビル・クリフトンも歌っています。ジェントルメンのスタジオ録音盤としては1970年リリースのアルバム「プレイ・イット・ライク・イット・イズ」(Play It Like It Is)まで待たなくてはいけません。

今回はここまで。残りは次回に。


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by scoop8739 | 2017-08-19 15:58 | カントリー・ジェントルメン

208 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (46)

フォークウェイズへの録音 (12)

a0038167_10472303.jpg5曲目の「どぶろく造りのやかん」(Copper Kettle)は、なぜか日本盤発売時には収録されませんでした。この曲はジョーン・バエズがヴァンガード社のアルバムに収録していたもので、密造酒造りのことを歌っています。作者はアルフレッド・F・ベドーです。

ところで「もしも」の話ですが、ジェントルメンがこの曲をメジャー・レーベルで発表していたのならば、キングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」のように、間違いなく全米ヒットしていただろうと思われます。さらに、当時のフォーク・ブームの象徴であった「ニューポート・フォーク・フェスティバル」に出演しなかったことの2点から、彼らが1960年代に起きたフォーク・ブームという絶好のチャンスに、全米的な名声を逃したということが、とても惜しまれます。

6曲目の「土の中のビリー」(Billy In The Low Ground)は、1839年には「ヴァージニア・リール」と呼ばれていて、1923年にフィドリン・ジョン・カーソンによって録音され、商業的に成功した曲です。1962年にはオズボーン・ブラザースの名盤「ブルーグラス・インストルメンタルズ」にも収録されています。ただしジェントルメンのこの曲は、日本盤発売時には何故か「ローハイド」とクレジットされていました。

7曲目はカントリー歌手ハンク・ウィリアムスの名唱でお馴染みの「アイ・ソー・ザ・ライト」(I Saw The Light)です。1947年に書かれヒットしましたが、ブルーグラスの世界でもビル・モンロゥを始め、スタンレー・ブラザースやリッキー・スキャッグス、ドイル・ローソンなど多くのバンドで歌われています。ニッティ・グリッティの歴史的名盤「永遠の絆」ではロイ・エイカフとアール・スクラッグスを中心として歌われています。

8曲目「トム・ドゥーリー」は言わずと知れたキングストン・トリオの最大ヒット曲です。この曲が1958年にヒットした時、ジェントルメンもピート・ロバーツによる改詞曲「ローリング・ストーン」を同年12月にスターディ社よりシングル盤リリースしています。チャーリーがコミカルに「数年前、全国的にヒットした曲です。歌ったグループは忘れましたが、歌のタイトルは“トム・ドゥーリー”と言います。我々はその特別版をお聴かせしたいと思います。バンジョーがひどく難しい弾き方をして特別な音を出します。エディはもう8年間も修行を積んでいるんですヨ」と曲紹介します。まさしくその通り、ハチャメチャ楽しい演奏を繰り広げます。

というところで、続きは次回に。

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by scoop8739 | 2017-08-17 08:50 | カントリー・ジェントルメン

207 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (45)

フォークウェイズへの録音 (11)

発売保留となったマーキュリー社へのアルバム「ナッシュヴィルの監獄」(Nashville Jail)のレコーディングからほどなくして、レベル社のフリーランド社長からアルバム制作の話が持ちかけられます。彼らはレコーディング場所をニューヨーク州にあるシラキュース大学内の「レコーディング研究所」と決め、そこで短期合宿に入ります。

この間に、大学の傍にあったライヴハウスでも演奏をしています。その模様を、大学内にあるレコード店で働く若者がテープに残していました。後に聴いてみると、この出来があまりに良かったため、彼らはフォークウェイズ社に持ち込んでレコード化を奨めます。レコーディングされた場所は「ザ・フォーク・ギャラリー」、196411月1日のことでした。

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録音されたものはしばらく発表されず、これもまたお蔵入りか?と思われたのですが、どういう訳か1967年4月に「イン・コンサート」と題されて、当時ジェントルメン人気に沸いていた日本だけで発売されます。後に本国アメリカで発売されたアルバム名は「ゴーイング・バック・トゥ・ザ・ブルー・リッジ・マウンテンズ」(Going Back To The Blue Ridge Mountains)でした。

ただし、邦盤「イン・コンサート」と「ゴーイン・バック〜」(長いので省略)とは曲順が違います。これまた米盤を正式な盤として採用させていただきます。

さらに、録音したテープがベース音を上手く捕えることができなかったため、永くベーシスト不在のライヴと言われていましたが、どうやらエド・フェリスが弾いていることが判明したようです。

それでは(発売当時のLPに合わせて)A面から説明しましょう。

非ブルーグラス的なマンドリンのイントロから始まる1曲目はタイトル曲「ブルーリッジの山々」(Going Back To The Blue Ridge Mountains)です。デルモア・ブラザーズによって歌われていた曲で、作者はアルトン・デルモア(ペンネームはジム・スコット)です。デルモア・ブラザーズ同様、数多くの「兄弟デュエット」によって歌われもしています。なおこの曲は、悪女と別れて故郷のブルーリッジの山々に帰る決意をする男の歌です。ドライヴのかかった豪快なナンバーで、以前録音していた「青い鳥が呼んでいる」(Bluebirds Are Singing For Me)に曲趣が似ています。チャーリーのヴォーカルが力強くて気持ちいいですネ。

2曲目「ゴーイング・トゥ・ザ・レイセズ」(Going To The Races)は、ジェントルメンにとっては記念すベきデビュー・シングルとして録音していた曲です。1930年代中頃にJ.E.メイナーとマウンテニアーズがヒットさせていたもので、1958年にはスタンレー・ブラザーズが「街を塗りつぶせ」(Gonna Paint The Town)と書き替え歌っています。歌は、「競馬に行って儲けがあったら楽しもうゼ」という他愛もない内容です。この辺り、ハリウッドのミュージカル映画の主題歌「私を野球に連れてって」(Take Me Out To The Ball Game)を意識しての作品なのか、どうなのか? ジョンによって、競馬レースを彷彿させるような曲調で歌われます。

3曲目の「ブルー・ベル」は、前録音作(この時点ではお蔵入り中)の「アズロ・カンパーナ」(Azzorro Campana)と題名違いの同一曲です。カントリー界の偉大な歌手で、名ギタリストでもあったマール・トラヴィスが1940年代後期にこの曲を録音し、さらに1960年にはアルバム「ウォーキング・ザ・ストリング」(Walking The String)に収録しています。ちなみに「ブルー・ベル」というのは鐘形の花を咲かせる草の一種だそうです。

4曲目「暗い炭坑の中で」(Dark As A Dungeon)では、ジョンが「近年、フォーク・ミュ―ジック界ではポピュラーになってきた曲」と紹介していますが、説明の言葉通り「炭坑夫の哀歌」です。この曲もまた1946年に、マール・トラヴィスによって書かれ歌われていて、チャーリーはマールに敬意を表して編曲せずに歌っています。ちなみに今回のクレジットでは作者がウィリアム・ヨークとなっていて、これはスターディ社の社長ドン・ピアス氏のペンネームです。

今回はここまでにして、続きは次回で。


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by scoop8739 | 2017-08-09 10:58 | カントリー・ジェントルメン

206 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (44)

トム・グレイの退団

お蔵入りとなったアルバム「ナッシュヴィルの監獄」の録音途中で、ベース奏者がトム・グレイからエド・フェリスへと代わります。

a0038167_08451514.jpgトム・グレイがカントリー・ジェントルメンに加入したのは196010月のことでした。レコーディングとして残っているは19613月からで、その月の19日にスターディでの10回目のセッションが行われています。この時、シングル盤のために用意した「レッド・ロッキング・チェア」(Red Rockin’ Chair)、「我が心は終りぬ」(I Know I've Lost You)2曲に加え、「イフ・ザッツ・ザ・ウェイ・ユー・フィール」(If That’s The Way You Feel)が録音されています。

そして翌年の4月、ジェントルメンとしては2枚目のアルバム「フォークソング&ブルーグラス」(Folksong & Bluegrass)(Folkways FA2410)で華麗なベース・プレイを披露することとなります。

トムは少年期からオールド・タイム・ミュージックに興味を持ち、レコードの収集を始めます。また12歳からはギターとマンドリンを弾き始め、ユニークなフラット・ピッキング・スタイルで演奏していたジョージ・シャフラーに影響を受けたと語っています。

シャフラーが1952年からベース奏者に転向するや、彼のウォーキング・スタイルのベースにのめり込むようになります。同時に、ジャズ界のベーシスト、キター・ベッツやギタリストのチャーリー・バードにも興味を覚えたそうです。

高校生となったトムは、通い始めたジェントルメンのライヴでメンバーと親しくなり、彼らのセッションに参加することになります。そして、当時のベース奏者だったジム・コックスが病気になった時には代演できるまでに成長します。

入学したジョージ・ワシントン大学ではブルーグラス・バンドの一員として演奏技術を磨きます。この時には既にウォーキング・ベースを修得していたようです。そして1960年の秋、いよいよジェントルメンの正式なメンバーになります。その時、彼はまだ19歳の学生でした。

以来4年間、ジェントルメンを(文字通り)底辺から支えてきたトムでしたが、「ブルーグラス・アンリミテッド」誌の編集者だったサリー・ゴヴァースとの結婚を機に、これからの生活を考えた時にミュージシャンとしての収入に不安を覚えます。

悩んだ末に、彼は月刊誌ナショナル ジオグラフィック」の発行元として有名な同協会に就職し、地図作りを仕事に選んだのでした。

ところで、トム・グレイが表舞台に復帰したのはそれから4年後のことでした。ビル・エマーソンとクリフ・ウォールドロンのバンド「ニュー・シェイズ・オブ・グラス」での新しいアルバム制作のために、ベース奏者として雇われたのです。

この時の縁があって、さらに3年後の「セルダム・シーン」への正式参加に繋がるのですが、それはまた別の話で…。

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by scoop8739 | 2017-08-08 08:45 | カントリー・ジェントルメン

205 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (43)


引き続き6曲目以降を聴きましょう。

a0038167_15140633.jpeg6曲目「冷たい風が吹く」(A Cold Wind A Blowin’)は、2曲目の「この世に住む場所もなくて」同様、ジョン・ダフィとアン・ヒル・ストリーターの合作です。ディランの「風に吹かれて」(Blowing In The Wind)を意識した内容で、曲調はブルーグラスなのですが、政治的ニュアンスのプロテスト・ソングと言った方がいいかもしれません。この曲の別テイクは、1966年にリリースされたアルバム「ブリンギング・メリー・ホーム」にも収録されています。なお資料では、この曲のベース奏者がエド・フェリスとなっています。私が調べたところでは、3曲目「エレクトリシティー」と、5曲目の「ブラウン・マウンテン・ライト」も、エド・フェリスのようですが、いかがでしょう?

7曲目「アンクル・ジョー」(Uncle Joe)は、エディが幼い頃育った家の近くに住む初老の黒人をモデルにして作り歌っています。この曲もまた1966年にリリースしたアルバム「ブリンギング・メリー・ホーム」に別テイクとして収録されていますが、どちらかと言うとこちらの方に軍配が上がりそうです。

8曲目「ブルー・ヨーデル No.3」(Blue Yodel #3)はカントリー・ヨーデルの第一人者ジミー・ロジャースが作って歌っていた曲で、別名「夕陽のヨーデル」と呼ばれていました。ビル・モンロゥに影響を受けたジョンのヴォーカルが冴えわたります。

9曲目「栄光への脱出のテーマ」(Theme From Exodus)は、元々ポール・ニューマン主演で1961年に制作された映画「栄光への脱出」の主題歌でした。グレゴリー・ペックやアンソニー・パーキンスが出演した映画「渚にて」の主題曲を手がけたアーネスト・ゴールドが作曲しています。ジョンとエディはこの曲を原曲の雰囲気を損なうことなく見事にブルーグラス・インストへとアレンジしています。この曲の別テイクは、1968年にリリースされたアルバム「ザ・トラベラー」に収録されています。

10曲目「お墓のそばに花を植えて」(Flowers By My Graves)は、「ユー・アー・マイ・サンシャイン」(You Are My Sunshine)を歌って有名なカントリー歌手ジミー・デイヴィスの作です。ビル・モンロゥが得意としたセイクレッド・ソングを、ジョンとチャーリーとエディの3部コーラスで歌い上げています。

オリジナル盤としての録音は以上の10曲でしたが、1990年にCDとして初リリースされるようになった時に、さらにもう1曲録音されていたのが11曲目の「待っていたのかい?」(Are You Waiting Just For Me)でした。この曲はテキサスの吟遊詩人と謳われたカントリー歌手のアーネスト・タブの作曲です。原曲はのんびりとしたものですが、ジェントルメンは軽快なバンジョーのイントロと共にノリノリのアップ・テンポで演奏しています。

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by scoop8739 | 2017-08-03 15:14 | カントリー・ジェントルメン

204 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (42)


マーキュリーへの録音
(4)

名盤「フォーク・セッション・インサイド」を発表して以降、ジェントルメン人気は高まるばかりでした。各地のライヴ・ハウスやフェスティバルからの出演依頼が殺到し、しばらく活動はライヴ中心となります。

さて、前作の録音から9ヶ月後の1964年6月5日、彼らはマーキュリー社への次のアルバム制作のため、久々にウィンウッド・スタジオでレコーディングをします。この時レコーディングされた10曲は、マーキュリー社との契約のもつれからか、結局リリースされずにお蔵入りしたのでした。

それから26年後の1990年、ピート・ロバーツの経営するカパー・クリーク社から突然の様にリリースされることになりました。

考えてみますと、あの世界的に有名なロック・グループ、ビーチ・ボーイズが、超「幻のアルバム」と言われていた「スマイル」を37年もの後に、作者ブライアン・ウィルソン自らの手によって完成させリリースした時、世代を超えた多くのファンたちからは大歓迎されたものでした。

一方ジェントルメンのこのアルバムは、当時のファンにとってリリースを喜ぶのには「時すでに遅し」の感を否めることができません。

a0038167_16372947.jpegそれでは、当時録音された10曲と、1990年にリリースされた際にボーナス・トラックとして追加された1曲を合わせて聴いてみましょう。

1曲目のタイトル曲「ナッシュヴィルの監獄」(Ballad of Nashville Jail)ドン・マクハンの作です。フォーク・セッション・インサイド」でも書きましたが、彼は「漁師の花嫁」(Young Fisherwoman)の作曲者でもあります。ジム&ジェシーのグループでギターを弾いていたり、テイター・テイトと共にベイリー・ブラザースのバンドにも在籍していました。ミドル・テンポのこの曲はジョンとチャーリーの斉唱で歌われています。

2曲目「この世に住む場所もなくて」(This Worlds No Place To Live)は、アン・ヒル・ストリーター(後にピート・ロバーツと結婚)の作詞、ジョン・ダフィーの作曲です。チャーリー・ウォーラーは出来上がったこの曲を評して、「このアルバムの中の最高傑作だ」と言ったそうですが、曲調は「500マイル」にとてもよく似ています。それをジョンが哀愁たっぷりに歌います。この曲は別テイクですが、1965年1月最後の週にシラキュース大学で録音され、レベル社からリリースされたアルバム「ブリンギング・メリー・ホーム」にも収録されています。

3曲目「エレクトリシティ」(Electricity)はとても神懸かった曲です。こういった歌を「リリジャス・ナンバー」(Religious Number)と呼んでいますが、宗教的な生まれ変わりを信じるというような内容のようです。ヒルビリー系のカントリー歌手としてそこそこ名を売っていたジミー・マーフィーが自作自演していた曲でした。リード・ヴォーカルのチャーリーはこの頃とても声がよく伸び溌剌と歌っています。また、間奏では独特のギターを聴くことが出来ます。アルバム「イエスタデイ&トゥデイ」vol.1にも同じテイクが使われています。

4曲目「アズロ・キャンパーナ」(Azzurro Campana)は、英語名「ブルー・ベル」と呼ばれる曲で、この後もジェントルメンのナンバーとしてよく演奏されます。バンジョーのエディとマンドリンのジョンの共作です。前アルバム「心の痛手」に共通するエディのバンジョー・ワークや、ジョンのギターとマンドリンを持ち替えての演奏が聴きものです。

5曲目「ブラウン・マウンテン・ライト」(Brown Mountain Light)は、3曲目の「エレクトリシティ」と同じように「光」のことを歌っていますが、こちらの方は「お化けの灯火」といったものです。「マウンテン・デュー」(Mountain Dew)やエルヴィス・プレスリーの歌で有名になった「愛していると言ったっけ」(Have I Told You Lately That I Love You)でお馴染み、スコット・ワイズマン作となっていますが、元々はノース・キャロライナ地方に伝わる民謡だと思われます。チャーリーのよく通るリード・ヴォーカルに続いてジョンとエディとによる3部コーラスとなります。

3.4、5曲目はこれ以降、彼らの十八番曲として、アルバム「ロアノーク・ブルーグラス・フェスティバル」や「ゴーイン・バック・トゥ・ザ・ブルー・リッジ・マウンテン」(邦題「イン・コンサート」オリジナルとは曲順が違います)などのライヴ盤に残されています。

この続きは次回へ。

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by scoop8739 | 2017-08-01 08:38 | カントリー・ジェントルメン