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26 ビル・モンローの若手ミュージシャン起用(2)

a0038167_1344349.jpgビル・キースがバンドに活力を与えている同時期にブルー・グラス・ボーイズに在籍していたのがデル・マッカリーでした。本来デルはバンジョー奏者としての入団でしたが、あまりにもキースのテクニックが素晴らしかったせいでギターとボーカルの担当となりました。しかし彼の声質がモンローとぴったり合ったために二人のデュエットはこの上なくマッチし、歌唱と器楽曲の両方でこの時期ほどエキサイティングなブルー・グラス・ボーイズは後にも先にもなかったと言われています。

翌年1964年にビル・キース、デル・マッカリーは相次いでバンドを去りますが、その後しばらくして入団したのがピーター・ローワン、リチャード・グリーン、ラマー・グリアーという都会出身の若者たちでした。当時リチャードは18歳で、モンローを除くバンドの平均年齢は20代という、ブルー・グラス・ボーイズ始まって以来の若さで話題となりました。

とりわけリチャードの若さに物を言わせたフィドリングは、バンド始まって以来のテクニックと強引さを併せ持ちバンドに活力を与えました。またピーターはボーカルの音程に多少の不安を抱えるものの、モンローの指示を忠実に守り努力まい進していきました。ということで彼はモンローお気に入りのボーカリストの一人となりました。

この時代のブルー・グラス・ボーイズの特徴は、爆発寸前のエネルギーをモンローがうまくコントロールして伝統のサウンドをクリエイトしているところにおもしろさがあります。またモンロー自身も精神的に若返っていることが聴くものを楽しませてくれます。

続いて1967年に三度目の若返りがありました。このときのメンバーはケンタッキー・カーネルズにいたローランド・ホワイト(クラレンスの兄)、ディラーズでフィドルを弾いていたバーロン・バーライン、そしてバンジョー奏者のビック・ジョーダンでした。彼らは若さに加えてブルーグラス音楽にとても精通していました。バーラインのテキサス・スタイルのフィドルとビックのキース・スタイルとスクラッグス・スタイルを組み合わせたバンジョーが奏でる心地よいインストゥルメンタルは、先のビル・キース在籍時に匹敵する完璧さで、これまた一時代を築いたのでした。

Off The Record, Vol. 1: Live Recordings, 1956-1969
(Smithsonian Folkways )
1.Watermelon Hanging On The Vine
2. Roanoke
3. Brakeman's Blues
4. Close By
5. Kentucky Waltz
6. Blue Grass Stomp
7. Blue Moon Of Kentucky
8. I'm Working On A Building
9. Angels Rock Me To Sleep
10. Wheel Hoss
11. Watermelon Hanging On The Vine
12. Katy Hill
13. True Life Blues
14. I Live In The Past
15. Wayfaring Stranger
16. Fire On The Mountain
17. Blue Grass Breakdown
18. Raw Hide
19. Y'all Come
20. Cotton-Eyed Joe
21. Get Up John
22. White House Blues
23. Roll In My Sweet Baby's Arms
24. Kansas City Railroad Blues
25. The Walls Of Time
26. When He Reached Down His Hand For Me
27. Monroe Family Segment
(次回につづく)

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by scoop8739 | 2004-08-31 13:43 | ブルーグラスの歴史

25 ビル・モンローの若手ミュージシャン起用(1)

a0038167_10531849.jpg1960年代になると、フォーク・リバイバルの影響で都市部にブルーグラス・ミュージシャンを志す若者が増えてきます。最初に頭角を現したのがバンジョー奏者のビル・キースでした。キースはその特徴あるバンジョーの演奏スタイルをもってブルーグラスという音楽に革命をもたらしたのです。

彼はさまざまなストリングス楽器を通じてフィドルのメロディに近づくことで、ユニークなバンジョー・ピッキングの奏法を会得したことで有名ですが、キースの楽器演奏のスタイルはまさに名人級で、新しい可能性にチャレンジするパイオニア精神にあふれています。この奏法は現在でもプログレッシヴ・ブルーグラス寄りのミュージシャンに多用されています。

彼は最初、レッド・アレンのバンドに入り演奏活動やレコーディングに参加しますが、アレンの口利きでビル・モンローに紹介され、その場でブルー・グラス・ボーイズの入団が決定しました。その理由は、彼のバンジョー奏法がアール・スクラッグス・スタイルを超える革新的なものだったからだといいます。

それまでの他の革新的なバンジョー奏者というと、ドン・リーノウ、ソニー・オズボーン、エディ・アドコック、J.D.クロウといったプレイヤーでしたが、彼らはスクラッグス奏法の語彙を発展させただけのもので、基本的な文法はやはりスクラッグス・スタイルでした。しかしキースのそれは、アプローチの全般に亘る複雑さにおいてスクラッグス・スタイルに代わる一つの文法を提案したのです。これは「クロマチック奏法」、あるいは「メロディック奏法」と呼ばれるものですが、今では彼の名を取って「キース・スタイル」と呼ばれています。

モンローは早速、キースをフィーチャーしたアルバム「ブルーグラス・インストゥルメンタル」を録音します。このアルバムの中で聴くことが出来る「ソルト・クリーク」、「悪魔の夢」や「セイラーズ・ホーンパイプ」などのフィドル・チューンを、キースはスケールや他の工夫で1音1音を鮮やかに弾き、新しいユニークなサウンドを創り出しています。

ビル・キースがブルーグラス界に与えたインパクトほど強烈なものはありませんでした。キースが現れて間もなく、南部(あるいは北部)のバンジョー奏者たちは彼のバンジョー奏法を知ろうとしました。また、レスター・フラットとアール・スクラッグスの人気の後塵を拝していたビル・モンローは、この機会をとらえて聴衆にブルーグラスの成り立ちを語り始めたのです。

それはキースをスクラッグスのレベルの達人と讃えた上で、自ら「ブルーグラスの創始者」とアピールし、その過程の中でアール・スクラッグスのバンジョー奏法が創られ、またその線に沿ってキースがブルーグラス・バンジョーを前進させたのだと説明したのです。この結果、彼のバンドには次々と都会のフォーク・リバイバルから生まれた若いミュージシャンたちが入団することとなります。そして彼らのエネルギーは、モンローの創る音楽を再活性化したのでした。

July 1963: Two Days at Newport(MCA)
1. July 26, 1963-Intro
2. Mule Skinner Blues
3. Uncle Pen
4. Devil's Dream
5. Molly and Tenbrooks
6. I Am a Pilgrim
7. Rawhide
8. July 27, 1963-Intro
9. Paddy on the Turnpike
10. Pike County Breakdown
11. Rawhide
12. Get Up John
13. Will You Be Loving Another Man?
14. Conversation With Ralph Rinzler
15. Pretty Fair Maiden in the Garden
16. Salt Creek
17. Lonesome Road Blues
(次回につづく)

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by scoop8739 | 2004-08-30 10:51 | ブルーグラスの歴史

24 フェスティバルの隆盛とジャムの楽しさ

a0038167_936434.jpgフォーク・リバイバル以降、フォーク・フェスティバルのような屋外での演奏人気が沸騰し始めます。ブルーグラス・フェスティバルも多分に漏れず、主催者がサマー・シーズンの週末の3〜4日間に林間キャンプ場のような場所を使い、プロのバンドを集めてブルーグラス音楽を観衆に聴かせるというイベントです。ロックの世界で有名なのは、1970年に「ウッドストック」というところで開催されたフェスティバルです。しかしブルーグラスはあれほど無秩序ではなく、どちらかというと長閑でアットホームな雰囲気の中で行われます。

フェスティバルの基礎が作られたのは、1965年にヴァージニア州ロアノークで開催されたものが最初でした。このフェスティバルでは、ニューポートなどのフォーク・フェスティバルの要素にカントリー・ミュージック・ショー・パークのようなものが組み合わされ、昼間はワーク・ショップ(プロの演奏者による技術指導)やアマチュアによるコンテストが行われます。そして夜になるとフェスティバルのハイライトであるブルーグラスのビッグ・ネームたちによるコンサートがあるのです。さらに最終日である日曜の朝にはゴスペル・コンサートが行われ、午後にはフェスティバルの最後のイベントで締めくくられます。

この最後のイベントは、例えばビル・モンローのバンドのかつてのメンバーが、ほぼモンローと一緒に仕事をした順に登場し、彼らはモンローと録音した歌を再現するのです。つまりこれが「ザ・ストーリー・オブ・ブルーグラス」と言われるイベントで、これ以降スタンレー・ブラザーズによるものや、ジミー・マーチンによるものなど、ビッグ・ネームを中心としたストーリーが次々と作られていきました。

さて、フェスティバルで世界的にもっとも有名なものは、毎年インディアナ州ブラウン郡ビーン・ブロッサム村で開催されている「ビーン・ブロッサム・ブルーグラス・フェスティバル」ではないでしょうか。このフェスティバルはブルーグラスの父、故ビル・モンローが主催し、自ら出演していました。このビーン・ブロッサムの模様は、現在でもCDで伺い知ることができます。御大ビル・モンローのほかに、レスター・フラットとナッシュヴィル・グラス、ジム・アンド・ジェシー、ジミー・マーティンなど、往年のビッグ・ネームたちの演奏が1枚のCDに収められています。

ところでわが国では、神戸郊外三田市で行われる「宝塚ブルーグラス・フェスティバル」と、箱根「夕日の滝キャンプ場」で開催される「箱根ブルーグラス・フェスティバル」がもっとも有名ですが、春から秋にかけては日本各地で数多くのフェスティバルが開催されています。

日本の場合、プロのブルーグラス・ミュージシャンというものがそんなにいないので、フェスティバルでは午後から夕方にかけてアマチュアのバンドがそれぞれ1バンド20分か30分程度の演奏をし、これが夜の更けるまで延々と続きます。それをずっと聴いているだけでも相当なものですが、夜も更けてステージが終わると、今度はあちこちでビールやバーボンで酔っぱらった参加者によるジャム・セッションが始まります。

ジャム・セッションでは10数人がそれぞれの楽器を持って一緒に歌い演奏します。いつもはそれぞれの地域で別々のバンドで活動している人たちですが、それまでは見ず知らずの人たちが一堂に会して、ブルーグラスのスタンダードを中心にいろんな曲を歌い、コーラスをし、即興演奏をします。何曲か、または何コーラスか進んでいくと、どこからともなく「アドリブで演奏しろ」と声が飛び交います。それに応えて見事に演奏し終わると大歓迎されるのです。それほど見事なテクニックでなくても仲間入りして夜が明けるまで、または全員が酔いつぶれるまで次から次へと曲を変えて同じことがくり返されます。周りを見るとこのような輪が会場のあちこちにいくつもあって、それぞれがアドリブの腕を競い合っています。

Bean Blossom (MCA)
1. Mule Skinner Blues [Live]
2. You Won't Be Satisfied That Way [Live]
3. Uncle Pen [Live]
4. Blue Moon of Kentucky [Live]
5. Ole Slew Foot [Live]
6. Sweet Little Miss Blue Eyes [Live]
7. Please Be My Love [Live]
8. I Wish You Knew [Live]
9. Love Please Come Home [Live]
10. Train 45 (Heading South) [Live]
11. Bonny [Live]
12. When My Blue Moon Turns to Gold Again [Live]
13. Hit Parade of Love [Live]
14. Mary Ann [Live]
15. Sunny Side of the Mountain [Live]
16. Free Form Man [Live]
17. Tennessee [Live]
18. Roll in My Sweet Baby's Arms [Live]
19. Feudin' Banjos [Live]
20. Ballad of Jed Clampett [Live]
21. Roll on Buddy, Roll On [Live]
22. I Wonder Where You Are Tonight [Live]
23. Orange Blossom Special [Live]
24. Fiddler Roll Call/Down Yonder [Live]
25. Soldier's Joy [Live]
26. Grey Eagle [Live]
27. Swing Low, Sweet Chariot [Live]
(次回につづく)

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by scoop8739 | 2004-08-26 09:34 | ブルーグラスの歴史

23 アメリカ西海岸のブルーグラス

a0038167_10144662.jpgカントリー・ジェントルメンの活躍に刺激されて西海岸からディラーズが登場します。彼らはバンジョーのダグ、ギターのロドニーのディラード兄弟を中心にした4人編成のバンドで、フラット&スクラッグスなどを手本として、都会のフォーク音楽の聴衆に向けて多くのフォーク・ソングを収めたアルバムでデビューします。

ディラーズは60年代前半にレコードやテレビを通してブルーグラスを広く知らしめ、70年以降も新しいカントリー・ロックを提示し続けた最もポピュラーなバンドです。彼らは登場とともにウエストコーストのブルーグラス・シーンを一身に担う役目を果たしました。一方、ブルーグラスからカントリー・ロック・バンドへといちはやく転身を遂げたのもディラーズです。しかし、そのスタイルは常にブルーグラスに根ざしたものであり続けたと同時に、トラデショナルなカントリー、フォーク、ロックといったあらゆるルーツを内包した音楽性は、ディラーズ独特の個性的なものでした。

そして1964年、12曲のインストゥルメンタルで構成されたアルバム「アパラチアン・スウィング」で鮮烈デビューしたのがケンタッキー・カーネルズでした。このアルバムの中で演奏されるフラットピック・ギターを耳にしたあらゆるブルーグラス・ギタリストたちは一様に驚愕してしまいます。それは意外なところにリズム・アクセントを置いた、ブルージーで刺激的、かつ趣味よく密着力のある技術を備えた革新的なブルーグラスのリード・ギターだったのです。

ギタリストの名前はクラレンス・ホワイト。19歳の彼は、ドク・ワトソンのフラット・ピッキングをもとに絶妙なタイミングでシンコペーションを加え、ピックだけでなく指をも使ってのメロディーとリズムを兼ねる独特の奏法を開発したのです。

元々ギターは、ブルーグラスの創成期においてリズム専門の楽器と考えられていて(バンドの中ではリード・シンガーがリズム・ギターを兼任するというパターンが多かった)、そういう時代がずっと続いていたのですが、60年代に入ってから徐々にブルーグラスにおけるリード・ギターの可能性の模索が始まります。前述のドク・ワトソンなどの天才的な人たちによって、「フィドル・チューンをギターで弾くためのテクニック」というのが確立されていったわけです。これは要するに乱暴な言い方をしますと、「フィドルやバンジョーで使っていたテクニックをギターに移植する」というやり方でした。つまりバイオリンの弓使いやバンジョーのロール(3フィンガー奏法のこと)をギターのフラットピック奏法でやってしまおうということです。こうしてクラレンスは持てるテクニックのすべてと彼自身の感性で新しいブルーグラスのリード・ギターを創造したのでした。

彼の弾くギターは兄ローランドのマンドリンやバンジョー奏者とも上手くマッチし、とくに「ナイン・ポンド・ハンマー」、「土の中のビリー」や「サリー・グッディン」などで聴くことのできるギターのテクニックには驚くものがあります。しかし残念ながら彼らは商業的な成功を得られず、やがてバンドは解散してしまいます。その後、クラレンスは紆余曲折の後、「ミスター・タンブリンマン」や「ターン・ターン・ターン」などの大ヒットで知られるフォーク・ロック・バンド、バーズに入団して活躍します。

余談ですが、バーズの結成メンバーの一人であったクリス・ヒルマンは、それ以前に南カリフォルニアで「ゴールデン・ステイト・ボーイズ」というグループのマンドリン奏者として活躍していました。やがてバンドはヒルメンと名乗りボブ・ディランの歌を2曲収めたアルバムをリリースしています。

Appalachian Swing! (Rounder)
1. Clinch Mountain Backstep
2. Nine Pound Hammer
3. Listen to the Mockingbird
4. Wild Bill Jones
5. Billy in the Low Ground
6. Lee Highway Blues
7. I Am a Pilgrim
8. Prisoner's Song
9. Sally Goodin'
10. Faded Love
11. John Henry
12. Flat Fork
(次回につづく)

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by scoop8739 | 2004-08-25 10:13 | ブルーグラスの歴史

22 モダン・ブルーグラスの旗手

a0038167_1065918.jpg1960年代前半のブルーグラス界はカントリー・ジェントルメンが台風の目となって活躍します。初期の彼らは古い民謡にそのレパートリーを求めましたが、次第にエディ・アドコックのジャジーなバンジョーを中心としたソリッドなインストゥルメンタルや、ジョン・ダフィーのエキセントリックなテナーを強調したトリオ・コーラス、さらにモダンなアレンジを加えた楽曲など、感受性豊かな都会的モダニズムで新時代のストリクトリー・ブルーグラスに仕上げ、これらをレパートリーの中心とします。

とくにジャズ・ナンバーをアレンジした「サンライズ」、「心の痛手」、オリジナル曲の「ナイト・ウォーク」といったインストゥルメンタルの斬新さは、彼らの人気の最大要因となりました。

またもっと重要なのは、彼らが用いたトリオ・コーラスの手法がその後のブルーグラス・コーラスを決定づけたことです。とくにエディのバリトン・シンギングは、それまでは軽く見られがちだったバリトンの重要性をあらためて認識させました。チャーリー・ウォーラーのどちらかというとドロ臭いリードに、ジョンの強烈なテナーが被さり、そしてエディのバリトンが見事なまでにかみ合って、独特なサウンドを生み出したのです。

そしてカントリー・ジェントルメンは、1961年9月にブルーグラス・バンドとして初めてカーネギー・ホールに出演し、モダン・ブルーグラスの旗手としてブルーグラス界に新風を送ったのでした。そんな影響もあって、ボストンからはジム・ルーニーとビル・キース、そしてニューヨークからはグリーンブライア・ボーイズ、チャールズ・リヴァー・バレー・ボーイズといった都会人によるブルーグラス・バンドが続々と登場しブルーグラス・シーンを賑わせました。

さてここで、カントリー・ジェントルメンがマーキュリー・レコードに残したアルバムを紹介しましょう。このアルバムは日本で初めて紹介されるや大評判となり、当時の学生バンドのほとんどがアルバムの中の曲をレパートリーに加えていたと言われています。まず1曲目の「青い鳥が呼んでいる」は、元メンバーだったバンジョー奏者のピート・ロバーツがアレンジしたものです。そのピートとジョンがアレンジしたのが2曲目のカーター・ファミリー・ソング「せつない日」、そしてビル・モンロー・ソングの4曲目「聞こえないのかい」は大胆なアレンジと、チャーリーの圧倒的なボーカルを聴くことができます。9曲目はドン・リーノウのバンドのギタリスト、シド・キャンベル作「今朝9時に」、ジョンとエディのアレンジによる10曲目の「ダイナおばさんのパーティー」では珍しくエディのボーカルが聴けます。また全曲に亘るトム・グレイのソリッドな4ビート・ベースがカントリー・ジェントルメンのモダン・サウンドの大きなファクターとなっていることに気づくことでしょう。このアルバムではダイナミックかつエキサイティングな、彼らとしては一番油の乗り切っていた頃の演奏が堪能できます。

Folk Session Inside (Copper Creek)
1. Bluebirds Are Singing for Me
2. Sad and Lonesome Day
3. The Girl Behind the Bar
4. Can't You Hear Me Calling
5. The School House Fire
6. Nightwalk
7. The Galveston Flood
8. The Young Fisherwoman
9. This Morning at Nine
10. I Am Weary (Let Me Rest)
11. Aunt Dinah's Quilting Party
12. Heartaches
BONUS TRUCK
13. Dark as a Dungeon
(次回につづく)

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by scoop8739 | 2004-08-23 10:05 | ブルーグラスの歴史

21 カントリー・ジェントルメンの登場

a0038167_9413435.gif1950年代後半から60年にかけてアメリカ全土を襲ったフォーク・リヴァイヴァルという風潮と共に、演奏面はもとより思想的なものも加味して、その対象が都会人(特に大学生を中心としたインテリ層)という新しいブルーグラスの道が切り開かれました。1950年代半ばまでは「ブルーグラス音楽」というと本質的には南部人が南部人(特にアパラチアン地方の人々)を相手に歌い演奏してきたものでしたが、ムーブメントは東部の都会人の中にもブルーグラス・バンドを誕生させたのでした。

彼らの演奏活動は、都会人にとってそれまで経験した音楽とは違って新鮮なショックを伴い絶対的な支持を得ました。その中でもっとも実力のあるバンド「カントリー・ジェントルメン」は、古いものを守るとか、単に郷愁といったものから一歩もニ歩も前進したもののとらえ方で、ブルーグラス音楽をより正しく理解する方向性を打ち出し、圧倒的な人気をつかんで行ったのでした。

カントリー・ジェントルメンの歴史は、バンジョー奏者のビル・エマーソン(Bill Emerson)から始まります。彼は1938年1月27日ワシントンD.C.に生まれ、少年時代にスミッティ・アーヴィンにバンジョーを習い、アーヴィン・ファミリーに加入してワシントンD.C.で演奏することになります。

すぐにバズ・バズビー(Buzz Busby)のバイユー・ボーイズ(Bayou Boys)のバンドに移りましたが、そこにいたのがギター奏者のチャーリー・ウォーラー(Charlie Waller)でした。チャーリーは1935年1月19日テキサス生まれで、少年時代をルイジアナの綿畑で過ごしたという典型的な「プアー・ボーイ」でした。彼はカントリー・シンガーのハンク・スノウやマック・ワイズマンをアイドルとして育ちます。その結果、力強い歌唱力を持ち、同時に非常に優れたギター奏者となりました。

1955年のある日、バズ(マンドリン)を含むメンバー数人が自動車事故に遭い入院を余儀なくされました。その夜にブッキングされていたヴァージニア州北部の居酒屋でのステージを失いたくないと思ったビルは、バズの代役として彼の少年時代からの友人だったジョン・ダフィ(John Duffey)という青年を連れてきました。ジョンは1934年メリーランド州ベセズダの生まれで、少年時代から聖歌隊で歌い、青年期に多くのアマチュア・バンドでその腕を磨いてきました。彼は独特の力強い歌い方をするテナー・シンガーで、マンドリンのスタイルは活気に溢れる斬新なものでした。

こうして急場しのぎで組み立てられたバンドでしたが、3人は多分にもれず息投合し、その頃都会で人気が出始めていたオズボーン・ブラザース(Osborne Brothers)のボーカル・スタイルを取り入れてのトリオ・コーラスは見事に調和したのでした。それから彼らはブルーリッジ・レーベルの社長であり、有名なD.J.だったドン・ウェンズの紹介で、ヴァージニア州アーリントンのWARL局を中心にワシントンD.C.周辺のバーやクラブで活動し腕を磨きました。さらに数ヶ月間ほど演奏活動を続けて、3人は新しくバンドを結成することを決めました。時は1957年7月4日、ジョン23歳、チャーリー22歳、ビル19歳という若いグループ、「カントリー・ジェントルメン」の誕生でした。

その直後の9月、彼らは「ディキシー」という小さなレーベルで初めてのレコーディングを行ないます。この時のパーソネルは、やはりワシントンD.C.出身の、フィドルにジョン・ヘイル(John Hail)、ベースにトム・モーガン(Tom Morgan)というメンバーでした。ここに初めての都会(東部人)によるブルーグラス・ミュージシャンのレコードが作られたのです。

彼らは初めてレコーディングしたディキシーより僅かに遅れて、スターディー・レコードと契約し(この時期、スターディーは全米に流通網を持つマーキュリー・レコードと業務提携していました)、この年の12月に、まず「バックウッド・ブルース」、「イエスタデイズ・ラブ」を、さらに同月「デキシー・ルックアウェイ」、「イッツ・ザ・ブルース」の計4曲をレコーディングしています。この時にフィドルがカール・ネルソンに替わります。この中から「バックウッド・ブルース」と「イッツ・ザ・ブルース」のカップリングがシングル発売されます。ディキシーでの初めてのシングル盤にはレコード番号が付けられなかったので、事実上これが「カントリー・ジェントルメン」として世に出た最初のレコードであると言ってもいいでしょう。

High Lonesome(Starday)
DISC:1
1. Backwoods Blues
2. Yesterday's Love - (previously unreleased)
3. Dixie Lookaway
4. It's The Blues
5. High Lonesome
6. Banjo Hop
7. Church Back Home, The
8. Orange Blossom Fiddle
9. Hey, Little Girl
10. Devil's Own, The
11. Rollin' Stone
12. Nine Pound Hammer - (previously unreleased)
13. I'll Never Marry
14. Travelin' Dobro Blues
15. Nobody's Business
16. New Freedom Bell - (alternate take)
17. New Freedom Bell
18. Hills And Home, The
19. Letter To Tom, A
20. Darling Allalee
21. Tomorrow's My Wedding Day
22. Helen
23. Blue Man
24. Remembrance Of You
25. Red Rockin' Chair
26. If That The Way You Feel
27. I Know I've Lost You
ほか2枚組全51曲
(次回につづく)

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by scoop8739 | 2004-08-20 09:40 | ブルーグラスの歴史

20 ロカビリーの大流行とフォーク・リヴァイヴァル旋風

アメリカ南部の白人音楽と黒人音楽とのクロスオーバーから誕生したのがロカビリー音楽です。オハイオ州クリーブランドにあるラジオ局の白人DJ、アラン・フリードによって広められますが、ビル・ヘイリー(Bill Haley)と彼のコメッツ(The Comets)は、白人ティーンエイジャーたちの間で黒人リズム&ブルースが大きな話題と支持を集めていることに気がつき、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」という曲を発表します。これが1955年でした。この曲は映画『暴力教室』の主題歌として使用されるや世界的な大ヒットとなります。この年、黒人シンガーのチャック・ベリー(Chuck Berry)は「メイベリーン」を、ファッツ・ドミノ(Fats Domino)は「エイント・ザット・ア・シェイム」を、さらにリトル・リチャード(Little Richard)は「トゥッティ・フルッティ」を発表し、いずれも大きな反響を得ます。

とどめは何と言っても、テネシー州メンフィスのマイナー・レーベル「サン」から破天荒の契約金と共にRCAへスカウトされた、あのエルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)のセンセーショナルな登場でした。そして翌56年に、彼は黒人音楽のノリを強くした名曲「ハウンド・ドッグ」、「ハートブレイク・ホテル」を、さらに「冷たくしないで」などを世に出し、これを連続11週もナンバー1にしてしまいました。

またエルヴィスの古巣「サン」レコードからは、カール・パーキンス(Carl Perkins)が「ブルー・スェード・シューズ」を、ジェリー・リールイス(Jerry Lee Lewis)が「火の玉ロック」を、ジーン・ヴィンセント(Gene Vincent)が「ビー・バップ・ア・ルーラ」を、そしてエディ・コクラン(Eddie Cochran)が「サマー・タイム・ブルース」をと、この1955年から57年の2年間はアメリカのミュージック・シーンが「ロカビリー」一色に染まったのでした。

ロカビリー音楽の大流行の波は、昔からの音楽のすべてをヒット・チャートの外へと追いやります。もちろんブルーグラス音楽も例外ではありませんでした。そんな中、ブルーグラス界はわずかにマーサ・ホワイトという強力なスポンサーにかかえられた「フラット&スクラッグス」だけがこの激動の波をものとせず、わが世の春を歌っている以外、御大ビル・モンローをはじめとして、あるものはケンタッキーに、またあるものはヴァージニアに、さらにはスタンレー・ブラザースのようにフロリダあたりにまで足を伸ばしてこのハード・タイムスを何とかしのいでいました。つまりこの時代は、「ブルーグラス音楽」が瀕死の状態にあったのです。

ブルーグラス音楽にとって、この暗黒の時代は1950年代が終わろうとする頃になってやっと明るい兆しが見えてきます。キングストン・トリオの出現によってブルーグラス音楽は伝統的音楽のひとつのスタイルとして認識され、北部や西部の大学、さらにコーヒー・ハウスに生息地を見出します。

1959年7月、先陣を切ってアール・スクラッグスがハイロ・ブラウンを伴って「ニューポート・フォーク・フェスティバル」に出演します。またフラット&スクラッグスとしては同年夏の「フォーク・ミュージック1959」というテレビ・ショウに出演しました。さらに翌年2月、オズボーン・ブラザーズがカントリー、ブルーグラス・バンドとしては初めてオハイオ州アンティオック大学でコンサートを行い、大成功を収めます。1960年というとアメリカではフォーク・ミュージック全盛の頃で、観客はブルーグラスをフォーク・ミュージックのひとつと認識していたのでした。こうしてオズボーン・ブラザーズのカレッジ・コンサートでの成功は、多くのブルーグラス・バンドをフォーク・マーケットに送り込むこととなります。

Newport Folk Festival:
Best of Bluegrass 1959-1966 [BOX SET] (Vanguard )a0038167_14532033.jpg
ディスク: 1
1. John Henry
2. Gathering Flowers from the Hillside
3. Love and Wealth
4. Orange Blossom Special
5. Prisoner Song
6. How Mountains Girls Can Love
7. Man of Constant Sorrow
8. Gathering of Flowers for the Master's Bouquet
9. Choo Choo Coming
10. Salty Dog Blues
11. Before I Met You
12. Cabin on the Hill
13. Jimmie Brown, the Newsboy
14. Border Ride
15. Gosh I Miss You All the Time
16. Dill Pickle Rag
17. She Left Me Standing on the Mountain
18. Pardon Me
19. Sweet Little Miss Blue Eyes
ほか全51曲
(次回につづく)

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by scoop8739 | 2004-08-19 14:52 | 同時代の音楽

19 ブルーグラス音楽の演奏スタイル

a0038167_11331510.jpgさて、「ブルーグラス音楽」の第一期黄金時代までを簡単におさらいしてみましたが、この「ブルーグラス音楽」の楽器構成と演奏スタイルを再度確認させていただきます。

一般的に「ブルーグラス音楽」は、歌曲、インストゥルメンタル(器楽曲)ともに5弦バンジョー(3本指奏法で演奏する)、ギター(スチール弦を使用)、フラット・マンドリン(裏側が平らなもの)、バイオリン(ブルーグラスを含むアメリカ民俗音楽では通常「フィドル」と呼ばれます)、ベース(いわゆるコントラバス)など、ほとんど電気楽器を使わないもので演奏されます。ですから、同じ「カントリー&ウェスタン音楽」でもスティール・ギター、エレキ・ギター、ドラムスなどで演奏される「ヒルビリー(単にカントリーとかナッシュビル・サウンドとも呼ばれます)音楽」とは形態上区別をされているのです。

なかでもバンジョーはブルーグラス音楽の花形楽器と言われ、アール・スクラッグスが1945年にビル・モンローのバンドに加わって革新的な演奏スタイルを確立してからと言うもの、これなくしてブルーグラス音楽は存在しません。また今日でも多くのファンを惹きつけるのは、やはりスクラッグス・スタイルのバンジョーであるように思えます。

演奏スタイルはおおむね5人編成が標準で、3人から7人組のほとんど男性で構成されています。もちろん例外はいくらでもありますが、バイオリンまたはフラット・マンドリンを省略したバンドやエレキ・ベースを使用するもの、エレキ・ギターまたはドブロ・ギター(ドブロと略す)などを加えたグループも多く存在します。歌はヨーロッパの賛美歌と黒人のゴスペル歌唱法の影響を受けていて、一般的には高く張りつめた歌い方をするのが特徴です。ソロ、デュエット、トリオ、そして宗教歌を歌うときなどはカルテット・コーラスなどのパターンがありますが、古典的なものはすべて男声だけであり、サビだけがコーラスという形もかなり一般的です。

曲の構成は、前奏のほかに第1コーラス、第2コーラスの間に必ず間奏が入り、バイオリン、バンジョー、フラット・マンドリンがアドリブ・ソロを演じるほか、ドブロやごくまれにベースがソロを演じることもあります。このように歌曲(楽曲)のテーマを変形させながら1コーラスずつ交互に楽器がアドリブ・ソロを演じるスタイルはジャズを模倣したものであるとも言われています。

Mountain Music: Bluegrass Style (Smithsonian Folkways)
1. Katy Hill
2. Katy Cline
3. Short Life of Trouble
4. Philadelphia Lawyer
5. Little Willie
6. Leather Britches
7. Natchez Under the Hill
8. Old Joe Clark
9. There Ain't Nobody Gonna Miss Me When I'm Gone
10. White House Blues
11. They're at Rest Together
12. Foggy Mountain Top
13. Nine Pound Hammer
14. Cricket on the Hearth
15. New River Train
16. Fox Chase
17. Feast Here Tonight
18. Snow Dove
19. Drifting Too Far from the Shore
20. Rocky Run
21. Bile 'Em Cabbage Down
22. All the Good Times Have Past and Gone
23. Sally Ann
(次回につづく)

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by scoop8739 | 2004-08-18 11:31 | 演奏スタイル

18 ブルーグラスの第一期黄金時代

ここまでブルーグラス音楽創成期のバンドをいろいろと紹介してきましたが、いろいろなプレイヤーやバンド名が出てきて頭の中が混乱しているのではないかと思いますので、ここらでもう一度復習をしてみましょう。

まず始めにアパラチア山岳地帯、詳しく書くとケンタッキー、ヴァージニア、キャロライナあたりの地域に入植したスコットランドやアイルランドからの移民たちが、故国から持ち込んだ古い民謡をもとに、新天地アメリカの気候、風土、風俗と黒人の歌うブルースを加味して創ってきたのがサザン・マウンテン・ミュージック(またはアパラチア・マウンテン・ミュージック)でした。

近年、アメリカで一大ブームを巻き起こしている「オー・ブラザー現象」、すなわち、映画『オー・ブラザー!』の大ヒットと、その挿入歌を演奏するコンサートの成功によってもたらされたアメリカ国民の「ルーツ・ミュージック」への関心の高まりは、新たなファン層の開拓にもつながっているようです。そもそもこの「ルーツ・ミュージック」こそが「サザン・マウンテン・ミュージック」に他ならないのです。

さてこのサザン・マウンテン・ミュージックが盛んに演奏されたのが20世紀初頭のことで、1920年代になると、これを職業とするマウンテン=ヒルビリー(現在ではオールド・タイム・ミュージックと呼びます)バンドが現れ、活躍し始めます。その一つにケンタッキー出身の「モンロー・ブラザーズ」がいました。

1939年に弟のビル・モンローが独立して「ブルー・グラス・ボーイズ」という名のバンドをスタートさせます。いろいろと試行錯誤の時期を経て1945年にバンジョー奏者のアール・スクラッグスが入団するや、彼の特徴のあるバンジョー奏法とビルのマンドリン、そしてギター、ボーカルのレスター・フラットらと共に、今日でいう「ブルーグラス・スタイル」を確立し、その音楽を完成させたのです。

以来、アパラチアン界隈で活躍していた演奏家たちはこぞってビル・モンローの創った音楽を模倣し始めます。彼らの中には、ブルー・グラス・ボーイズの一員となってブルーグラス・エッセンスを習得し、そして独立した後もその演奏スタイルを継承する人も現れます。前出のレスター・フラットとアール・スクラッグスは独立してフォギー・マウンテン・ボーイズを結成しブルーグラスの発展に貢献します。さらにカーターとラルフ兄弟のスタンレー・ブラザーズ、ドン・リーノウ、マック・ワイズマン、オズボーン・ブラザーズ、ジミー・マーチンなど数多くのミュージシャンたちが「ブルー・グラス・ボーイズ・スタイル」の音楽を演奏し、1953年を頂点としてブルーグラス音楽が第一期黄金時代を築き上げるのです。そうするうちに、この新しい演奏スタイルの音楽をラジオ局のD.J.たちは総称して「ブルーグラス・スタイル」(略してブルーグラス)と呼ぶようになりました。

ちなみに「ブルー・グラス・ボーイズ」と書く時には必ず「・」を入れますが、本国アメリカでも「BLUE」と「GRASS」の間に「スペース」が入ります。ところでブルーグラス(bluegrass)を辞書で引いてみると、スズメノカタビラ属の草とか、米国ケンタッキー州地方(bluegrassが豊富に生える)の別称と書かれてあります。ビル・モンローの出身地のオハイオ郡はケンタッキー州西部にあたりますから、バンド名がブルー・グラス(Blue Grass)というのもそのためでしょうか。
(次回につづく)

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by scoop8739 | 2004-08-16 19:02 | ブルーグラスの歴史

17 ジム&ジェシー兄弟の多彩な音楽遍歴

a0038167_1643981.jpgジムとジェシーのマクレイノルズ兄弟は、ヴァージニア州南西部、つまりテネシー、ケンタッキー、ノース・キャロライナのそれぞれの州に接するサザン・マウンテン地域に生まれ育ちました。

この地域出身のブルーグラス・バンドとして有名なのがカーターとラルフのスタンレー兄弟ですが、彼らとジム&ジェシー兄弟を比較してみると全く違ったサウンドであることがわかります。つまりスタンレー兄弟のブルーグラスはストレートでハード系ですが、ジム&ジェシー兄弟の創り出すサウンドはソフト系なのです。それには彼らがたどってきた数多くの音楽遍歴が原因しているのでした。

1940年代後期に兄ジムがギター、弟ジェシーがマンドリンを弾きながらコーラスするというデュエット・コーラス中心のバンドを組みます。始めは兄弟デュオの代表的なグループであったブルー・スカイ・ボーイズやベイリー・ブラザーズなどの曲をレパートリーとしていたようですが、それから彼らが試みたのは、バンドにスティール・ギターやアコーディオン、ピアノ、オルガンといった楽器を導入しての、いわゆるウェスタン音楽というものでした。

この頃、一般的にブルーグラス・バンドがテネシー州を活動の中心にしていたのに対して、彼らはウィチタ、カンサスといった別の地方を目指します。その当時の彼らのレパートリーは“サンズ・オブ・パイオニアーズ”や“ライダーズ・オブ・ザ・パープル・セイジ”というウェスタン・バンドの曲でした。

その後オハイオへと移った彼らは、カンサス時代に知り合ったバンド仲間とゴスペル・ソングを歌うバンドを組みます。この時代にマンドリン、ギター、ベースという編成ではありましたが、ブルーグラス・スタイルでセイクレッド・ソングを歌うようになります。バンドにはブルーグラス音楽に欠かすことのできない楽器バンジョーがない代わりに、ジェシーのマンドリンが大活躍を始めます。これは後年、“マクレイノルズ・スタイル”とか“マンドリンのスクラッグス・スタイル”などと形容されるようになる、アール・スクラッグスのバンジョー奏法をマンドリンに取り入れたものでした。ジェシーの明解なアクセントをつけて弾くクロス・ピッキング奏法は、それまでのマンドリン奏法に対して革命そのものでした。

1952年になるとキャピトル・レコードと契約して本格的にブルーグラス音楽を演奏するようになります。しかし彼らの創り出すブルーグラス音楽が従来のブルーグラス・スタイルと明確に違うのは、ビル・モンローの影響下になかったという点です。

つまり、これまでのブルーグラス・プレイヤーの大半は、かつてブルー・グラス・ボーイズの一員としてビルに師事した人ばかりでした。ビルはメンバーに対し、「常に先人たちの創った“スタイル”、“テクニック”を徹底的に研究させ、伝統的“スタイル”を堅固に受け継ぐ」ことを要求しました。要するにビルの創り出すブルーグラス音楽は、“スタイル”を重要なポイントと考えていたのです。だから、たとえブルー・グラス・ボーイズから巣立っていったプレイヤーであっても、根本的にこの“スタイル”から離れるということはまずあり得ませんでした。

ジム&ジェシーがブルーグラス音楽へと演奏スタイルを変えていったのは、なるほど確かにブルー・グラス・ボーイズの影響がなかった訳ではありませんが、ところが、彼らは他の多くのプレイヤーのように、決してブルー・グラス・ボーイズをコピーすることによってブルーグラス音楽を取り入れたのではありませんでした。また、もし彼らが他のプレイヤーのようなアプローチでブルーグラス音楽を演奏していたのであったなら、彼らの音楽的魅力は永遠にそのスタイルの中に埋没してしまっていたことでしょう。

こういった点で、彼らは他のプレイヤーには決して真似のできない、いわゆる純カントリー調のレパートリー(強いていうと、モンロー流のブルーグラス・スタイルではないという意味)を、実に鮮やかにジム&ジェシー流のブルーグラス・スタイルで演奏することができたのです。

3の「アー・ユー・ミッシング・ミー」は彼らが初期にレパートリーにしていたルーヴィン・ブラザーズの作品です。1、2はこのルーヴィン・スタイルで作られています。6、7は自作のセイクレッド・ナンバーですが、スタンレー調で演奏されています。一押しのナンバーが9で、モチーフの新鮮さが曲調にまで浸透しています。10、11、15はどの観点からみても、彼らの典型的なスタイルで演奏されています、

First Sounds: The Capitol Years (Capitol )
1. I'll Wash Your Love From My Heart
2. Just Wondering Why
3. Are You Missing Me
4. I Will Always Be Waiting for You
5. Virginia Waltz
6. Are You Lost in Sin
7. Look for Me (I'll Be There)
8. Purple Heart
9. Air Mail Special
10. My Little Honeysuckle Rose
11. Waiting for a Message
12. Too Many Tears
13. My Darling's in Heaven
14. Two Arms to Hold Me
15. Is It True
16. A Memory Of You
(次回のつづく)

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by scoop8739 | 2004-08-15 16:44 | ブルーグラスの歴史