カテゴリ:カントリー・ジェントルメン( 72 )

237 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (72)

ジョン・ダフィの退団とその後。

ついにその日がやってきました。ジョンは1969年初めにカントリー・ジェントルメンを辞めることを決断します。

その後残されたメンバーはジョンの抜けた穴を若手マンドリン奏者のジミー・ゴウドローで埋め、彼の築いた路線を継承します。

しかしエディが抜け、さらにジミーも抜けると、チャーリーはバンジョーに創成メンバーのビル・エマーソンを呼び戻し、マンドリンにはJ.D.クロウのグループにいたドイル・ロウソンを誘い、さらにベースにビル・イエイツを加えてカントリー・ジェントルメンを伝統的なオーセンティック・ブルーグラスへと変身させて行きます。

一方、ジョン・ダフィは楽器の修理を生業とし、しばらくは音楽活動を休止していたのですが、またぞろ演奏への意欲が湧き出すと、クリフ・ウォルドロンのバンドの主力メンバーと共にセルダム・シーンというさらに革新的なバンドを組みあげます。

まず始めはワシントンD.C.で活躍していたバンジョー奏者のベン・エルドリッジが、彼の自宅地下で毎週ジャムセッションを始めます。このセッションには、ギターとリード・ボーカルのジョン・スターリング、ドブロとバリトン・ボーカルのマイク・オゥルドリッジ、そして以前カントリー・ジェントルメンのメンバーだったベースのトム・グレイが参加します。セッション・メンバーのマイク・オゥルドリッジは、バンドをより前進させようと思いジョン・ダフィをジャム・セッションに招きます。

そして試しに、彼らは地元のクラブで週に1夜だけ出演し、週末にはコンサートやフェスティバルで時々演奏し始めます。

バンドが上手く機能し始めると、彼らはワシントンD.C.にある小さなクラブで6週間プレイした後に、19721月頃からメリーランド州ベテスダにあるライヴハウス「レッド・フォックス・イン」をフランチャイズとしてライヴ活動を始めました。

メンバー全員が日々の仕事を持っているために、このグループは自らを“めったに姿を見せないバンド”との意味を込めて「セルダム・シーン」(Seldom Scene)と名付けます。

シーンのサウンドはブルーグラスを基盤にして、カントリー、ロックン・ロール、フォークの影響を受けた革新的なものでした。コンサートの出演やレコーディングは稀にしか行わず、そういう噂がさらにグループの人気を高め、1974年までに彼らはミュールスキナー・ニュース誌の読者投票でブルーグラスのトップ・バンドに選ばれます。

ジョン・ダフィはそれまでのうっぷんを晴らすかのようにプログレッシブな選曲で、強力なテナー・ボイス、パワフルなマンドリン演奏を展開します。加えてメンバーの驚異的なステージ・テクニックが新しい世代のファンや仲間たちを魅了したのでした。

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「モダン・ブルーグラスの旗手」と言われたジョン・ダフィの新たなるステージの幕が上がったのです。

この続きはいずれまた。(終わり)


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by scoop8739 | 2017-11-21 10:51 | カントリー・ジェントルメン

236 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (71)

レベルでの録音(26)

それではいよいよあと4曲です。

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B面の3曲目「エル・デド」(El Dedo)はエディ作のインスト曲です。以前レコーディングした「ブルー・ベル」と同じような雰囲気を持つこの曲で、エディ節と言われるギャロッピング奏法をたっぷり聴かせてくれます。

4曲目「メリー・ディア」(Mary Dear)はアンドリュー・スターリングとヘンリー・ティルザー(Andrew B. Sterling & Harry Von Tilzer)の共作で、1929年にチャーリー・プールとノース・キャロライナ・ランブラーズ(Charlie Poole& North Carolina Ramblers)がレコーディングしています。またジェントルメンの友人であるビル・クリフトンもレパートリーにしていました。ジェントルメンの他のバージョンとしては、ライヴ・アルバム「ゴーイング・バック・トゥ・ザ・ブルーリッジ・マウンテンズ」にも収録されています。

5曲目「ブルーリッジ・マウンテン・ホーム」(Blue Ridge Mountain Home)は、フラット&スクラッグスが、「新聞売りのジミー少年」(Jimmy Brown, The Newsboy)とカップリングでリリースされ、その後、アルバム「フォギー・マウンテン・ジャンボリー」(Foggy Mountain Jamboree)に収録されて以来、この曲もブルーグラスの定番曲となっています。アパラチアン山脈の支脈ブルーリッジにある我が家を偲んで、自分の死後にはその傍に埋めて欲しいと歌います。典型的なブルーグラス・ソングですが、間奏のバンジョーはまるで意に介さないかのように自在に演奏しています。

澱みなく流れるようなスリー・フィンガー・バンジョーで始まる6曲目「救いの舟」(Take Me A Lifeboat)もまたフラット&スクラッグスのレパートリーで、マーキュリー盤に収録されていた曲です。「私を貴方の命の舟に乗せてください。それは荒海にもびくともしないでしょう。さぁ兄弟よ、姉妹よ、眠らずに日夜お祈りしなさい。神様の命の舟に乗せていただけるように」と、セイクレッド曲の常套としてクアルテット・コーラスで歌われます。

このアルバムは、196810月に本国アメリカでリリースされます。ちなみに日本盤は、前作「ザ・トラベラー」から6曲、本作から8曲の編集盤として、1970年2月にジョンのバンド離脱を悲しむかのように「ラスト・アルバム」というタイトルで発売されています。


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by scoop8739 | 2017-11-17 14:21 | カントリー・ジェントルメン

235 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (70)

レベルへの録音 (25)


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チャーリーの低音で渋いヴォーカルで始まるA面5曲目「バナナボートの唄」(The Banana Boat Song)は、あの「デーオ、デイ・エイ・エイ・エイ・オー」と歌われる、メジャー・リーグでの野茂英雄のテーマ曲にも使われたことのある有名なジャマイカの港湾荷役夫の労働歌です。歌詞の内容は、「もうじき日が昇る。オイラはつらい仕事を終えて家に帰りたいんだ。伝票をつける人よ、早くバナナを数えてくれ」というものです。最もよく知られているバージョンは、1956ニューヨーク出身の黒人歌手ハリー・ベラフォンテが歌ってヒットしたものでした。ジェントルメンはチャーリーのリード・ヴォーカルを追いコーラスが続きます。エディがバンジョーの表面をドラムのように叩きアクセントをつけています。

6曲目の「レースへ行こう」(Going To The Races)は、ジェントルメンの記念すベき第1弾シングル盤に収録されていた曲で、ライヴ・アルバム「ゴーイング・バック・トゥ・ザ・ブルー・リッジ・マウンテンズ」(Going Back To The Blue Ridge Mountains)でも披露されています。この曲をジョンにとっての最後のアルバムに持ってきたというところに、とても感慨深いものがあります。ジョンのテンションの高いボーカルに続いて典型的なブルーグラスのトリオ・コーラスとなります。マンドリン・プレイにも圧倒されます。

引き続きB面1曲目「帰る少年たちを待って」(Waiting For The Boys To Come Home)はマック・ワイズマンが歌って有名になった、これから戦いに出る青年たちを見送る歌です。「我々は神の加護を信じて、彼らの帰りを待とう。遠からず、波涛を越えて、凱旋してくる彼らの笑顔を見る日まで、この灯台からかがり火をかかげ続けよう」と輪唱で歌われます。作者はルーサー・プレスリー(Luther G. Presley)という人で、有名なところでは「聖者の行進」(When The Saints Go Marching In)の作詞もしています。ジェントルメンの演奏はまるでセイクレッド曲であるかのように歌っています。

2曲目はマンドリンのトレモロから始まるスロー・ナンバー「リトル・ジョー」(Darling Little Joe)です。この曲はアメリカ南東部地方の古民謡で、不治の病に伏す少年ジョーの清らかな悟りの境地を美しく綴っていて、カーター・ファミリーがレパートリーとしていました。ジェントルメンは全編トリオ・コーラスで歌っています。


次回はB面の残り4曲です。


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by scoop8739 | 2017-11-13 17:44 | カントリー・ジェントルメン

234 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (69)

レベルへの録音 (24)


ジョンの最後となったレコーディングは、1969年3月16日、かつてアルバム「旅する人」(The Traveler)に収録した「ベイビー・ブルー」、「マッターホルン」をレコーディングしたメリーランド州バルチモアにある「レコーディングス・Inc.」でした。

11年間に亘りバンドのカラーを作り、またバンドを牽引してきたジョンにとって最後のアルバムとなった「そのようにやりなさい」(Play It Like It Is)は、まさしく彼のブルーグラスに対する想いを伝えるタイトルになりました。それではアルバムの収録曲目を紹介しましょう。a0038167_17403983.jpg
A
1.「彼は友だちだった」(He was A Friend Of Mine)
2.「ディキシーの夜明け」(Daybreak In Dixie)
3.「あの良き日々」(Some Old Days)
4.「ラギー・マウンテン・シェイクダウン」(Raggy Mountain Shakedown)
5.「バナナボートの唄」(The Banana Boat Song)
6.「レースへ行こう」(Going To The Races)
B
1.「帰る少年を待って」(Waiting For The Boys To Come Home)
2.「リトル・ジョー」(Darling Little Joe)
3.「エル・デド」(El Dedo)
4.「メリー・ディア」(Mary Dear)
5.「ブルーリッジ・マウンテン・ホーム」(Blue Ridge Mountain Home)
6.「救いの舟」(Take Me In A Life Boat)

A面の1曲目「彼は友だちだった」(He was A Friend Of Mine)はボブ・ディランのブートレグ集にも収録されているアメリカの古いフォーク・ソングです。初めて録音されたのはアフリカ系アメリカ人の受刑者であったスティーブン・ケーシーのもので、後にバーズやウィリー・ネルソンもレコーディングしています。間奏でのブロック・コードを使ったエディの演奏が面白い味を出しています。

2曲目の「ディキシーの夜明け」(Daybreak In Dixie)は、ライヴ・アルバム『ゴーイング・バック・トゥ・ザ・ブルー・リッジ・マウンテンズ』(Going Back To The Blue Ridge Mountains)でも演奏されているように彼らのライヴ・パフォーマンスの必須曲であり、またどのブルーグラス・ミュージシャンにとっても定番曲です。ジョンの火の出るようなマンドリン演奏は勿論のことですが、エディのオーソドックスなスリー・フィンガー・スタイルのバンジョー演奏にも感心致します。

3曲目「あの良き日々」(Some Old Days)は、「俺は今、鎖に繋がれたまま、雨に打たれて働かされている身だけれど、いつかきっと、この刑務所から出て、君の元に返って行くよ。君もまた、その日を待ってて欲しい」と、レスター・フラットの歌唱で有名な囚人歌です。作者はルイス・サータイン(Louise Certain)とグラディス・ステーシー(Gladys Stacey)で、フラット&スクラッグスがアルバム「フォギー・マウンテン・ジャンボリー」(Foggy Mountain Jamboree)を発売して以来、ブルーグラスの定番曲となっています。ジョンの張りつめたリード・ヴォーカルが絶品です。

4曲目の「ラギー・マウンテン・シェイクダウン」(Raggy Mountain Shakedown)は、ジョン作のインスト曲で、いつものようにジョンとエディの絡みが素晴らしい曲です。ここでもエディはジェントルメン加入から約10年、とても上達したスリー・フィンガー奏法で演奏しています。

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by scoop8739 | 2017-11-10 17:44 | カントリー・ジェントルメン

233 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (68)

ジョン・ダフィの決意

 かつてカントリー・ジェントルメンは、彼らのホーム・グラウンドにしているアメリカ東部の都市部では大学生を中心に絶大な人気を誇っていました。

 時代は移り、ビートルズに端を発したブリティッシュ・インヴェージョン(British Invasion=イギリスの侵略)の影響を受けたアメリカのポピュラー音楽界は、新しい音楽“フォーク・ロック”や“サイケデリック・ロック”という形で対抗を始めます。

 その頃、アメリカによるベトナム侵攻に反対する学生運動が、これに呼応するかのように新しい音楽を求めるようになりました。アメリカ各地で行われる反戦運動で、音楽演奏はフォーク・ロックやもっとヘビーなロックへと変わって行きます。

 次第にカントリー・ジェントルメンの音楽は東部の学生層に指示されなくなり始めます。やがてジェントルメンはその活動の軸足をフェスティバルに求めるようになりました。

 ところがブルーグラス音楽の盛んな南東部地方では、ボブ・ディランを始めフォーク・ソングをアレンジしたようなスタイルはあまり好まれませんでした。フォーク・ソングのリスナーたちが伝統主義に対する考えを緩めるにつれ、皮肉なことにブルーグラスの世界は自ら意識してその境界を定義し始めます。そして次第にジェントルメンはフェスティバルに招かれなくなります。

 メンバーの生計は音楽活動で成り立っていたので、ジョンの目指す音楽的志向は彼らの経済環境に決していい影響を与えるものではありませんでした。ジョンのプログレッシブな志向に嫌気がさしたのか、チャーリーの音楽志向は次第に伝統的なものへと傾いて行きます。グループの目指す方向が曖昧になり始めました。

 こうしてジョンはリーダーとしての責任感からか、また一説には、“飛行機に乗るのが嫌だ”との理由から日本での公演をキャンセルした責任を取ってとの噂もありましたが、1969年の初め、状況の打破に疲れてカントリー・ジェントルメンを辞めることを決意したのです。


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by scoop8739 | 2017-11-06 10:22 | カントリー・ジェントルメン

232 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (67)

レベル社からシングル盤とアルバムをリリース。そして我が国でも。

こうして録音された曲は、アルバム発売の前に次々とシングル盤でリリースされます。

まず1967年5月に、アルバム「不思議な少女」(Bringing Mary Home)に収録されていた「リパブリック讃歌」(Battle Hymn Of The Republic)と、「マッターホルン」(Matterhorn)とのカップリング盤(Rebel F-267)です。

続いて1968年2月には、「バッファロー・ガールズ」(Baffalo Girls)と、「南部の兵士」(Johnny Reb)のカップリング(Rebel F-275)でリリースされます。

そして同年4月には、「ボーダー・アフェア」(A Border Affair)と、「栄光への脱出のテーマ」(Theme From Exodus)とのカップリング(Rebel F-285)でリリースされました。

さらにアルバム「旅する人」(The Traveler)が発売されたのは1968年4月のことでした。曲順は以下の通りです。

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A

1.「ボーダー・アフェア」(A Border Affair)

2.「南部の兵士」(Johnny Reb)

3.「旅する人」(The Traveler)

4.「ベイビー・ブルー」(It’s All Over Now, Baby Blue)

5.「栄光への脱出のテーマ」(Theme From Exodus)

6.「かの地への求道」(I’m Working On A Road To Gloryland)

B

1.「美しき人生」(A Beautiful Life)

2.「多くの道程」(Many A Mile)

3.「マッターホルン」(Matterhorn)

4.「バッファロー・ガールズ」(Baffalo Girls)

5.「暗い炭坑の中で」(Dark As A Dungeon)

6.「アメリア・エアハートの物語」(Amelia Earhart’s Last Flight)

さて我が国では、1967年4月にジェントルメンとしては6枚目のアルバム「イン・コンサート」(London SHL-86)が発売されます。このアルバムは彼らのライヴの模様を収めたテープをフォークウェイズ社に持ち込んで作られたものでした。

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この時点では、本国アメリカでの発売見通しがなかったために、世界初のリリースとなっています。

アメリカ盤がリリースされたのは、日本盤の発売から遅れること、なんと6年後の1973年6月のことでした。そのタイトルは「ゴーイング・バック・トゥ・ザ・ブルー・リッジ・マウンテンズ」(Going Back To The Blue Ridge Mountains)。カントリー・ジェントルメンのファンにとっては、待つ首が伸びすぎるほど、あまりにも遅いリリースでした。

なお、日本盤「イン・コンサート」の4ヶ月後に、7枚目のアルバム「オハイオの岸辺で」(London SHL-93)が発売されます。これはアメリカ盤の「不思議な少女」(Bringing Mary Home)の曲順を変えて、日本独自の編集をしているものでした。


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by scoop8739 | 2017-11-02 16:16 | カントリー・ジェントルメン

231 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (66)

レベルへの録音 (23)

さらに1週間の後、つまり1月24日にアルバムのための最後の録音を致します。3曲ほど録音されたのですが、実際にアルバムに使われたのは1曲だけでした。

その1曲が「栄光への脱出のテーマ」(Theme From Exodus)です。エディ・アドコックは映画を観た後、曲を思い出しながらバンジョー・インスト曲にするために採譜したそうです。この曲は名盤「フォーク・セッション・インサイド」の次に発売するはずだった「ナッシュヴィルの監獄」(Nashville Jail)に収録される予定でした。結局発売が見送られることとなり、このタイミングで再度のレコーディングとなりました。

次にレコーディングした曲が「銀色の鐘」(Silver Bell)です。この曲はカントリー・スター、ドク・ウィリアムズによってヒットし大衆化しました。ジェントルメンはワシントンD.C.でラジオ番組のテーマ曲として使われていたのを聞いてレコーディングを思いついたそうです。だがアルバムには収録されませんでした。

3曲目の「愛と冨と」(Love And Wealth)もまたルバムには収録されませんでした。この曲はアメリカ版「金色夜叉」とでも言いますか、愛とお金を秤にかけて、お金の方を選んだ女性のことを未練たらしく歌った曲です。ルーヴィン兄弟が作り歌っていましたが、オズボーン・ブラザーズ盤を始め、後年、デヴィッド・グリスマンの名盤「ヒア・トゥデイ」でもこの曲を聴くことが出来ます。

これらの2曲は、アルバムには収録されませんでした。でも近年、4枚組ボックス・セット「アーリー・レコーディング19621971」で陽の目を見ることができました。

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by scoop8739 | 2017-10-30 17:04 | カントリー・ジェントルメン

230 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (65)

レベルへの録音 (22)

前回のレコーディングから1週間をおいての1月17日、さらに録音を続けます。この時の録音曲は以下の4曲です。

a0038167_13324276.jpg「多くの道程」(Many A Mile) はエディによると、「フォーク・グラス」と呼ばれるような曲調の歌で、1965年にカナダのシンガー・ソングライター、バフィー・セントメリーによって広く知られるようになりました。作者はネイティヴ・インディアンのフォーク歌手のパトリック・スカイです。「これまで幾マイルもさすらい、あの世にたどり着くまで、さらに幾マイルもさすらい続けて行く」と歌われるこの曲は、チャーリーにとっては、とても歌いづらいものだったようです。

「アメリア・エアハートの物語」(Amelia Earhart’s Last Flight)は、1927チャールズ・リンドバーグの快挙に続いて、初めての大西洋単独横断飛行をした女性の物語です。彼女は1937年(昭和12年)には赤道上世界一周飛行に挑戦しますが、同年7月上旬、南太平洋において行方不明となりました。この曲の作者はスウィフト・カウボーイズのリーダーだったデイブ・マッケナリーで、彼はこの曲を書いたのは、1937年にニューヨーク州で行ったキャンプ・ファイアの周りであったと語っています。1960年代には、グリーンブライア・ボーイズによってブルーグラスにアレンジされ歌われています。この曲はまた、「イエスタデー・アンド・トゥデイ」Vol.1にも収録されています。

「家路につきて」(Lord, I’m Coming Home)は、1892年に賛美歌作曲者ウィリアム・J・カークパトリックによって作られたセイクレッド曲です。ジェントルメンはこのゴスペル・ナンバーを伝統的な4部コーラスで歌っています。レコーディングされはしたものの、この曲はアルバムには収録されず、結局「イエスタデー・アンド・トゥデイ」Vol.2で陽の目を見ることになります。

アルバムのタイトル曲「旅する人」(The Traveler)はジョンが彼の妻に捧げた曲で、独特の作風であるフォーク・ソング調に仕上がっています。当然、背景には当時の「フォーク・ブーム」というものがありました。ブームは彼らにも多くの仕事を与えてくれました。しかしそんなブームを嫌がっていたのがチャーリーでした。彼は生粋のブルーグラッサーであり、伝統的なブルーグラス音楽を愛していたのです。

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by scoop8739 | 2017-10-24 09:49 | カントリー・ジェントルメン

229 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (64)

レベルへの録音 (21)

年が変わり1968年に入ると、カントリー・ジェントルメンはレベル社での2枚目のアルバムのためにレコーディングを始めます。録音場所はメリーランド州クリントンにある「ロイ・ホーマー&アソシエーツ」でした。

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1月に4回、計12曲のセッションを行っています。この中から、以前に録音していた曲を合わせ、全12曲のアルバム収録曲を決めます。

まず1月9日、この日の録音は次の3曲でした。

「バッファロー・ガールズ」(Baffalo Girls)は伝統的なアメリカの歌で、1844年に黒人役俳優吟遊詩人ジョン・ホッジズにより書かれ、「ラブリー・ファン」(Lubly Fan)というタイトルで出版されました。その後アメリカ国内で広く流行したため、彼は各地の聴衆に合わせるように歌詞を変更しています。例えばニューヨークでは「ニューヨーク・ギャル」であったり、ボストンでは「ボストン・ギャル」となり、またアラバマでは「アラバマ・ギャル」と歌われています。この曲をジョンとエディがインスト曲としてアレンジしました。

「美しき人生」(A Beautiful Life)は、神の子として日ごと善行を積むことを善しとする行き方を歌ったセイクレッド曲です。1918年にウィリアム・ゴールデンによって作られたこの曲は、モンロゥ・ブラザーズを始めビル・モンロゥやスタンレー・ブラザーズ盤でも有名です。ジェントルメンは正統派4部コーラスで歌います。ここではエド・フェリスのバス・ヴォーカルを聴くことが出来ます。

「かの地への求道」(I’m Working On A Road To Gloryland)も前曲に負けず劣らず日々の善行を歌ったセイクレッド曲です。作者はレスター・フラットで、195159日にフラット&スクラッグスとしてコロンビア・レコードにシングル盤用に録音しています。ジェントルメン・バージョンでは、ギターの間奏はジョンだと思われます。コーラス部のリードがチャーリー、テナーがジョン、バリトンがエディ、そしてバスがエド・フェリスです。ただしバスのソロはエディが担当しています。

翌1月10日には、次の2曲をレコーディングしました。

「ボーダー・アフェア」(A Border Affair)はジョンの愛唱曲です。この曲には3、4の別名があり、カナダのフォーク・デュオ「イアンとシルビア」がアルバム「四つの強い風」(Four Strong Winds)の中で収録していて、「スペイン語は愛の言葉」(Spanish Is A Loving Tongue)というタイトルで歌っています。チャールズ・バジェット(あなぐま)・クラークによって作られ、この曲を最も有名にしたのがフォーク歌手のリチャード・ダイアー・ベネットでした。我が国ではモダン・フォークの初期に学生フォーク・バンドに愛された曲で、杉田二郎なんかが得意としていました。後に高石友也とナターシャー・セブンによって「ミ・アモール・ミ・コラソン」という題名で歌われています。

「南部の兵士」(Johnny Reb)はエディがジョニー・ホートンのアルバムから学んだ曲です。作者はマール・キルゴアという人で、彼はカントリー歌手のジョニー・ホートンとトミー・ローためにこの曲を書いています。ジェントルメン・バージョンではエディのリード・ヴォーカルで歌われます。なお、チャーリーは12弦ギターを使用しています。


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by scoop8739 | 2017-10-19 13:33 | カントリー・ジェントルメン

227 時系列で聴くカントリー・ジェントルメン (63)

レベルへの録音 (20)

カントリー・ジェントルメンはアメリカ東海岸地方を中心に、大学やコーヒー・ハウス、そして時にフェスティバルの出演と、慌ただしくも充実した日々を過ごしていました。

「ロアノーク・ブルーグラス・フェスティバル」から約10ヶ月後の1967年5月30日、メリーランド州リヴァーデールにある「ボブ・ロイド・スタジオ」というところで1曲レコーディングしています。この曲はシングル発売されず、レベル社での2枚目のアルバムのために取って置かれますが、結局、そのアルバムでも使われることはありませんでした。

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タイトルが「黄金の鐘が鳴るとき」(When They Ring Those Golden Bells)というこの曲は、後に「イエスタデイ・アンド・トゥデイ」Vol.1に収録されることになります。ジョン・ダフィのリードで歌われる哀愁漂うセイクレッド・ナンバーです。

同年9月3日には、バージニア州ベリーヴィルにある「ウォーターメロン・パーク」でのライヴの模様が残されています。それが以下の5曲でした。

「黒いベール」(The Long Black Veil)は、1960年のフォークウェイズ社でのアルバム「カントリー・ソングズ・オールド&ニュー」で初めてレコーディングされて以来、1962年の「オン・ザ・ロード」でのライヴなど、ジョンが好きな曲のようでどのステージでもたいてい演奏されています。ジョンの張りつめたハイ・リードが悲壮なまでに曲を盛り上げています。この曲もアルバム「イエスタデー・アンド・トゥデイ」Vol.1に収録されました。

「双頭の鷲の下に」(Under The Double Eagle)もまた、アルバム「カントリー・ソングズ・オールド&ニュー」以来、よく演奏されるチャーリーの得意曲です。後半のコード・ワークを多用したプレイは十八番となっています。エディが鮮やかなギャロッピング・バンジョーを披露し、ジョンも切れのよいマンドリンを聴かせます。この曲も同じくアルバム「イエスタデー・アンド・トゥデイ」Vol.1に収録されました。

「ゲット・イン・ライン・ブラザー」(Get In Line Brother)は、ジョンのもっとも得意とするセイクレッド・ナンバーです。エディの少し走り気味のスリー・フィンガー・スタイル・バンジョーに続いて、これぞブルーグラス・カルテットという名唱が聴かれます。この曲もまた、アルバム「イエスタデー・アンド・トゥデイ」Vol.1に収録されました。

「クリプル・クリーク」(Cripple Creek)は、ライヴならではのジョークが聴ける曲です。196411月にレコーディングされたライヴ盤「ゴーイング・バック・トゥ・ザ・ブルー・リッジ・マウンテンズ」にも収録されました。冬の寒い朝に、レコード・プレイヤーが暖まるにつれ回転速度が次第に早くなって行く感じを演奏で表しているとのことです。バンジョーの練習にいかがでしょうか? この曲はアルバム「イエスタデー・アンド・トゥデイ」Vol.2に収録されました。

「天国」(Heaven)は、ボイドとヘレンのマクスパデン夫妻が作った有名なセイクレッド・ナンバーで、フラット&スクラッグスの「ソング・トゥ・チェリッシュ」やレッド・アレンの「ブルーグラス・カントリー」にも収録されています。ジョンのお気に入りのナンバーで、彼独特のヴォーカル・スタイルを聴かせてくれます。後にセルダム・シーンのアルバム「アクト3」にも収録されています。軽やかなマンドリンのイントロに始まり、天国への讃歌を哀愁あるヴォーカルで聴かせてくれます。この曲は「イエスタデー・アンド・トゥデイ」Vol.3に収録されました。


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by scoop8739 | 2017-10-16 14:05 | カントリー・ジェントルメン