カテゴリ:ブレイク・タイム( 6 )

203 ちょっと一服、1964年(昭和39年)の音楽事情

1964年というのは、我が国の音楽界にとってはとても重要な年でした。アジア初のオリンピックが東京で開催されることになり、世界各国の人々が来日し、日本国中から多くの人が上京してきます。そのためか「東京」をテーマにした歌が多く作られました。

たとえば、坂本九の「サヨナラ東京」、新川二朗の「東京の灯よいつまでも」、西田佐知子の「東京ブルース」、ザ・ピーナッツの「ウナ・セラ・ディ東京」などです。

もちろん歌謡曲はそれだけではありません。

橋幸夫の「恋をするなら」「ゼッケンNO.1スタートだ」「チェッ チェッ チェッ」、舟木一夫の「花咲く乙女たち」「君たちがいて僕がいた」、西郷輝彦の「君だけを」「十七才のこの胸に」「星空のあいつ」と、御三家を中心とした「青春歌謡」が花盛り、加えて弘田三枝子 の「私のベイビー」「ダンケ・シェーン」「恋と涙の17才」、田辺靖雄梓みちよのマイ・カップルが歌った「素敵な新学期」、ダニー飯田とパラダイスキング の「ワシントン広場の夜は更けて」などの洋楽カバー曲もまだまだ人気でした。

洋楽も負けてはいません。

ガス・バッカスの「恋はすばやく」、トロイ・ドナヒューの「恋のパームスプリンブス」、ジリオラ・チンクェッティーの「夢みる想い」、マット・モンローの「ロシアより愛をこめて」、アストロノーツの「太陽の彼方に」、ジョニー・ティロットソンの「ポエトリー」、キングストン・トリオの「花はどこへいった」、ボビー・ソロの「ほほにかかる涙」、ダイアン・リネイの「ネイビー・ブルー」などなど、カンツォーネあり、映画の主題歌あり、フォークあり、サーフィンありと百花繚乱の様相を呈していました。

a0038167_15032749.jpegそんな中、英国から黒船の如くやって来たのが「ビートルズ」でした。この年の2月に「抱きしめたい」で日本デビューを果たすやヒット曲を連発し、ティーンエイジャーを中心に人気が爆発していきます。

ちなみに、4月4日付けの米国『ビルボード』紙のシングル・チャートでは、1位~5位までの上位5曲のすべてがビートルズの曲で埋め尽くされたというのは有名な話です。その記念すべき5曲とは、1位「キャント・バイ・ミー・ラブ」(Can't Buy Me Love)2位「ツイスト・アンド・シャウト」(Twist And Shout)3位「シー・ラブズ・ユー」(She Loves You)4位「抱きしめたい」(I want To Hold Your Hand)5位「プリーズ・プリーズ・ミー」(Please Please Me)でした。

この年に中学生になった私は、洋楽好きの友達や実兄の影響でビートルズを始めとする洋楽にハマっていきます。人生初めて買ったレコードがビートルズの「抱きしめたい」で当時330円でした。あの頃、うどん屋さんでかけうどんが50円くらいだったので、今なら一杯500円としても、シングル盤がなんと3,000円オーバーもしたのです。たしかに中学1年生の私のひと月の小遣いが300円でしたので、そのくらいはしたのでしょう。一人で買うのは大変なので実兄と半分ずつ出し合ったのを覚えています。

また、この年の7月には彼らの初主演映画「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」A Hard Day's Nightが完成し、81日に松竹セントラルで日本初公開されています。この時、興奮した女性客がスクリーンに飛びついたり、破ったりしたことで、大いに新聞紙面を賑わせました。

当然ながら中学校では映画を観に行くことが禁止されていましたので、映画館に行くことができません。そんな私の思いを察してか、翌年4月の始業式の日、学校に秘密で実兄が私を街の名画座に誘ってくれました。そこで初めて「動くビートルズ」を観ることができたのです。

1964年というネットもなく、情報も貧困だった時代に、田舎の中坊の「ビートルズ・マニア」の私が、後に「カントリー・ジェントルメン・マニア」になるにはまだまだ時間と情報と出会いが必要でした。

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by scoop8739 | 2017-07-29 15:01 | ブレイク・タイム

189 ちょっと一服、1963年(昭和38年)の流行歌を…

カントリー・ジェントルメンがアメリカ東海岸で活躍していた1963年(昭和38年)とは一体どんな年だったのでしょう。日本での流行歌に対比させながら話を進めてまいりましょう。

昭和30年代も終わり頃になると、流行歌の世界でも世代代わりを感じさせるような状況になってきました。つまり、三橋美智也、春日八郎、フランク永井、美空ひばり、江利チエミ、雪村いずみといった昭和20年代、30年代の前半から活躍していた大スターたちに代わって、若いスターがヒットを飛ばすようになります。

a0038167_15165716.jpgこの年のヒット曲を思いつくまま挙げてみると、梓みちよが歌った「こんにちは赤ちゃん」、舟木一夫の「高校三年生」、三田明の「美しい十代」、北原謙二の「若いふたり」、坂本九の歌った「見上げてごらん夜の星を」などの青春歌謡が数多くヒットしています。

また、梓みちよと田辺靖雄の「ヘイ・ポーラ」、ダニー・飯田とパラダイス・キングをバックに九重佑三子が歌った「シェリー」などのカヴァー・ポップスもヒットしました。

洋楽では、サーフィン&ホットロッド・ブームをうけて、ビーチ・ボーイズの「サーフィン・U.S.A.」、ジャン&ディーンの「サーフ・シティ」、アストロノウツの「太陽の彼方」、サーファリーズの「ワイプ・アウト」、ロニー&デイトナスの「GTOでぶっとばせ」が流行り、ジョニー・シンバルの「ミスター・ベースマン」、カスケイズの「悲しき雨音」、ジョニー・ティロットソンの「キューティ・パイ」、ヴェルヴェッツの「愛しのラナ」といったアメリカン・ポップスがラジオ番組でよく流れていました。

前年から引き続いてのフォークソング・ブームに乗って、PP&Mの「パフ」や、ロルフ・ハリスの「悲しきカンガルー」、ニュー・クリスティ・ミンストレルズの「グリーン・グリーン」なんかがヒットしています。そして極めつけがボブ・ディランの「風に吹かれて」でした。

またこの年、バンジョーという楽器を日本で広く知らしめた曲「ワシントン広場の夜は更けて」(ヴィレッジ・ストンパーズ゛)も流行しています。

一般的には、高度成長政策による所得上昇にともなって各家庭にテレビ受像機が急速に普及し、話題のテレビ番組を一家揃ってみることが団欒娯楽の中心になったのもこの頃でした。結婚と同時に、独身時代の4畳半一間のアパートから何とか抜け出し、水道完備・ガス見込みの文化住宅に住み、テレビ、洗濯機、冷蔵庫など電化製品を所狭しと並べて、台所のある部屋の真ん中に赤外線の電気ごたつ、卓上にはミカンやおかきを置き、みんながテレビをみながらそれに手をのばし、「狭いながらも楽しい我が家」を実感するというのがこの頃の「しあわせ」の典型で、「ホーム・ドラマ」も次々と制作されています。

しかし、明るい話題ばかりでもありませんでした。衝撃的な事件が起きたのもこの年です。それは翌年に開催される予定の東京オリンピックを世界に生中継しようということで、宇宙通信衛星を使って中継放送が行われていた11月23日のことでした。

時のアメリカ大統領、ジョン・F・ケネディのメッセージを日本に伝えるべく、大統領がダラス空港に着き、オープン・カーに乗って人々の歓呼にこたえる映像を送っていた時のことでした。人々に手を振っていた大統領が突然座席に倒れたのです。まったく偶然にも、中継放送の最中に大統領が暗殺された瞬間が映し出されたのでした。

テレビはリアルタイムで出来事の映像を伝えると言われてきました。国内の事件報道などで確かにそれを実感しはじめていたのですが、世界の出来事ではまだまだ先の話だと思っていました。その最初を東京オリンピックでとNHKの技術陣は意気込んでいたのでしたが、それが一年も前にこんな衝撃的な事件で実現しようとは誰も想像できなかったのです。これをきっかけにテレビはその速報性を自覚し、めざめたように事件現場からの生中継報 道を行うようになりました。

さて、話を流行歌に戻すと、この年の「紅白歌合戦」は81.4%という驚異的な視聴率を記録しています。一体どんな顔ぶれで、どんな歌を歌ったのか、誰もが興味のあるところでしょうが、いくら他に愉しみがなかったといっても、この視聴率は現在では考えられないものですね。
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by scoop8739 | 2006-03-30 15:17 | ブレイク・タイム

157 時さえ忘れて

(I Didn't Know What Time Is)

好きなことをしていると、誰しも時を忘れてしまうものです。
ボクの場合、大好きな音楽を聴いていたり、時間に追われないことに没頭している時間がそうです。もっと若ければ恋して、好きな人と過ごしている時間がそうだったのかもしれないけれど…。恋してる二人には一緒にいる時間が短くも感じ、時さえ忘れてしまうものです。

“私があなたと逢ったのはいつの頃だったろう。素晴らしい時だった。まさに最高だった。あれはいつの日だったろう”と始まる「時さえ忘れて」は、1939年に上演されたミュージカル「トゥー・メニー・ガールズ」(Too Many Girls)のナンバーで、ロレンツ・ハート作詞、リチャード・ロジャース作曲という、日本でいうところの往年の松本隆、筒美京平のようなメジャー・コンビによる曲でした。

この曲はその後1957年、フランク・シナトラが映画「夜の豹」の中でも歌ったり、スタンダードとしてエラ・フィッツジェラルドやトニー・ベネットなど多くの歌手に歌われています。

ペギー・リーは1953年の録音でスローなヴァースを丁寧に歌い上げ、コーラス部分ではスウィング・テンポのいいノリで快唱しています。アニタ・オデイも「アン・イヴニング・ウィズ・オデイ」というレコードで優れた歌唱を残していますが、ベティ・カーター「ファイナリー」や、カーメン・マクレエ「イン・パースン」などもこの曲を取り上げ見事に歌い上げています。

ブルーグラスをテーマにいろんな事を書いていると「時さえ忘れて」しまうものです。ボクにとってそれは、恋して、好きな人と一緒にいる時間よりももっと愉しい時間なのかも知れません。今回はブルーグラスの曲ではないのですが、こんな曲で今年を締めくくりたいと思います。

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by scoop8739 | 2005-12-31 18:56 | ブレイク・タイム

104 モダン・ジャズとブルーグラス(3)

今回が最後の「ジャズとブルーグラスを同じ土俵で語る」シリーズ、第3弾です。

さて話をジャズに戻しますと、1960年代のジャズの中でも安定した形で勢力を伸ばしていったのが、ジョン・コルトレーンや彼の推進したフリー・ジャズと、それ以上にマイルス・デイヴィスを軸としたモード・ジャズ〜新主流派ジャズでした。これらふたつのスタイルが大きな原動力となって、ジャズをさらに発展させていったのです。

しかしその後ジョン・コルトレーンが急逝し、これによって求心力を失ったフリー・ジャズは徐々にパワーが減弱して、いい意味でも悪い意味でもその方向性を拡散させることになってしまいます。一方、新主流派ジャズを創造発展させた主役のマイルスは、さらに次なるステップへと目を向けていました。それが1968年から始まるロックへの接近で、これによって1970年代のジャズ・シーンもマイルスを中心に大きく揺れ動くことになるのです。

a0038167_20165987.jpg1970年代の幕開けは、1969年に録音されたマイルス・デイヴィスの「ビッチェズ・ブリュー」(Columbia/Sony)によって告げられました。1970年春に発売されたこのアルバムは、従来のジャズには認められないポリリズムとロック・ビートの斬新な結合が話題を呼び、多くのミュージシャンに強い影響を及ぼします。

ロック的な要素をマイルスが自分の音楽に取り入れるようになったのは、そのしばらく前の作品からでした。1968年に録音した「マイルス・イン・ザ・スカイ」(Columbia/Sony)で初めて8ビートとエレクトリック・ギターを導入してみせた彼は、続く「キリマンジャロの娘」(同)で電気ピアノを採用し、ロック的なビートもさらなる創造的な形で持ち込むことに成功したのでした。

そして翌年に録音された次作の「イン・ア・サイレント・ウェイ」(同)で、マイルスは従来のレギュラー・コンボによるレコーディングという習慣を取り崩し、さまざまなメンバーの起用と大胆なエレクトリック・サウンドを導入してみせたのでした。そうした過程を経て発表したのが「ビッチェズ・ブリュー」だったのです。

これらの作品においてマイルス・ミュージックに肌で触れることができたミュージシャンたちが、彼とともに1970年代における新しい音楽の中心人物となっていきました。1970年代初頭には、マイルスのグループから巣立ったミュージシャンたちによって、この時代のシーンをリードするいくつかの重要なグループが結成されています。

1970年代前半はまさにマイルス一派が音楽シーンを独占し、また彼らによって音楽が発展していったと言えるほどの勢いがありました。彼らの演奏は様々な音楽ジャンルからの要素を吸収したものであったため、“クロス・オーヴァー”、のちに“フュージョン”と総称される音楽へと繋がっていきます。

a0038167_2017351.jpgさてここでジャズに遅れること20年、ブルーグラスは第3の世代と言われるプレイヤーや女性プレイヤーによって大きく様変わりし始めます。複雑なフレーズやコード進行を持つ楽曲や、ジャズ、フュージョン、ロックなどへの接近によって、もはやブルーグラスにカテゴリーできないものまで現れてきました。こうしたものは広義に「アメリカーナ」と呼ばれ、従来のブルーグラスとは一線を画していますが、どこまでがブルーグラスで、どこからがアメリカーナなのかはっきりしないものもあります。しかし音楽の形態がどう変わろうと、その底辺に流れているのはアパラチアン山脈に息づくアイリッシュ系アメリカンのルーツ・ミュージックに他ならないのです。(この項、終わり)

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by scoop8739 | 2005-06-30 20:23 | ブレイク・タイム

103 モダン・ジャズとブルーグラス(2)

前回ひんしゅくを買ったついでに、「ジャズとブルーグラスを同じ土俵で語る」シリーズの第2弾を…。

1950年代末のジャズ・シーンは、モード・ジャズやフリー・ジャズの登場によってハード・バップ一色だったそれまでに比べて多彩な広がりを見せようとしていました。そうした状況を大きく発展させたのが次の10年間でした。

1950年代は、ハード・バップからファンキー・ジャズという亜流が生まれ、さらにそこから1960年代前半にロックと結びついたジャズ・ロックと呼ばれるポップな演奏も行われるようになりました。すなわちこの時代のジャズ・シーンでは、ハード・バップ、ファンキー・ジャズ、ジャズ・ロック、モード・ジャズ、フリー・ジャズなどのさまざまなスタイルを持った演奏形態が、それぞれに切磋琢磨しながら頂点を極めようとしていたのです。

ここで話をブルーグラスに持っていくと、ジャズに遅れること10年、ほら、似たような状況が起こっているではありませんか。1960年代末にニューグラスの芽が現れ、1970年代には、ブルーグラスにもそれまでに比べて多彩な広がりが起こり始めます。

a0038167_2038115.jpg幕開けは、サム・ブッシュが推進するニューグラスによって切り落とされました。またサム同様に独自の手法でニューグラスの道を模索していたベテラン、ジョン・ダフィーの率いるセルダム・シーンの登場でした。興味深いのは、サムがロックをベースにしてニューグラスのイディオムを開発したのに対し、セルダム・シーンはシンガー・ソングライターのものやフォーク・ミュージックからアイディアを持って来たということです。方法論や音楽的なルーツが異なっていたにもかかわらず、両者が結果として共通項の多いスタイルを提示してみせたところに、それまでのブルーグラスから脱出したいという強い気持ちが伝わってきます。つまり、従来のブルーグラスという概念をそれまでにはなかった手法と方法論で超越することによって、より自由な演奏を目指したのでした。

ニューグラスの初期においては、サムのニュー・グラス・リバイバルとセルダム・シーンが自転車の前輪と後輪のような役割を果たしながら、この独特な音楽性を発展させていきました。そしてやがてここにカントリー・ガゼット、J.D.クロウのニュー・サウス、エディ・アドコックのセカンド・ジェネレーション、レッド・ホワイト&ブルー(グラス)、カントリー・クッキングといったバンドが加わるようになって、ニューグラスは名実共にひとつの大きな流れへと発展したのでした。

一方1970年半ばに、デル・マッカリーを中心として巻き起こったのがニュー・トラディショナルの動きでした。これに続いてリッキー・スキャッグスを中心としたブーン・クリークや、ジミー・ゴウドロウのニュー・トラディション、ベテランのレッド・アレン率いるアレン・グラスが、ブルーグラスの温故知新運動を巻き起こします。


a0038167_20394695.jpg加えて1970年代半ばには、こうしたブルーグラスの流れと離れたところからもうひとつの人気を呼ぶスタイルが登場してきます。それが西海岸で起こったデヴィッド・グリスマンを中心としたドウグ・ミュージックでした。ドウグ・ミュージックはブルーグラスに使われる楽器を用い、サザン・マウンテン・ミュージックとジャズのフィーリングを掛け合わせた新しいアコウスティック・ミュージックとして生まれました。その後ドウグ・ミュージックはバンドのメンバーだったトニー・ライスやダロル・アンガーらによってさらに新しいものへと進化していきます。

一方、東海岸の大都会ニューヨークでは、カントリー・クッキングのメンバー、アンディ・スタットマン(m)やトニー・トリシュカ(bj)、さらに新世代のバンジョー・プレイヤー、ベラ・フレックの活動も無視ができません。彼らはブルーグラスにプラス・サムシングとしてジャズやフュージョンを取り入れ、実験的な作品を次々と発表していきます。こうしてブルーグラスは、多くを飲み込んだ新しい音楽ジャンルへと変貌し始めるのです。

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by scoop8739 | 2005-06-28 20:41 | ブレイク・タイム

102 モダン・ジャズとブルーグラス(1)

ジャズとブルーグラスを同じ土俵で語るというのも変な話ですが、第2次世界大戦前後に花開いたモダン・ジャズと時同じくして生まれたブルーグラスは、片やアフロ・アメリカン、片やアイリッシュ系アメリカンという両極端の人種によって形作られているものの、その歴史的な進化過程はよく似ています。

1940年代は第2次世界大戦をはさみ、アメリカ社会は多いに揺れ動きました。それに伴ってスイング・ジャズの黄金時代が終焉を迎え、よりアグレッシヴな演奏を主体としたビバップ(バップと呼ぶこともあります)と呼ばれる新しい形態とコンセプトによる音楽が誕生します。

ジャズはスイング時代までは、基本的にダンス・ミュージックとしての役割に重きが置かれていました。それが複雑なフレーズやシンコペーションを伴うビバップになると、この音楽で踊ることが非常に難しくなり、観賞用の音楽としての要素が強まってきたのです。

1940年代初頭にニューヨークのハーレムで生まれたビバップは、1950年代に入るといっそう熱狂的でブルース・フィーリングを強調したハード・バップへと進化を遂げます。また、ビバップの対極に位置する音楽として、最少の人数でビッグ・バンド・サウンドを演奏するという、マイルス・デイヴィス(トランペット)やレニー・トリスターノ(ピアノ)が提唱、実践したクール・ジャズも一般的なものとなり、そこから影響を受けたウェスト・コースト・ジャズは、イースト・コーストのハード・バップに相対するムーヴメントとして形成されてまいります。

とりあえず1950年代までのモダン・ジャズの歴史を書いたつもりですが、なんだかブルーグラスにも当てはまることが多くあると思いませんか?

さてここ数ヶ月、ボクはジャズの旧譜、つまりジャズが最も輝いていた1950年代に録音されたブルーノートの1500番台を中心にたくさんのジャズを聴いています。ブルーノートの1500番台というと、時期はちょうどビバップからハード・バップへと移行している頃のものです。

a0038167_15293537.jpgブルーノートの1500番台はマイルス・デイヴィスから始まります。その当時のマイルスはドラッグの渦中にありましたが、この1501番と1502番の2枚に分けて録音された演奏に耳を傾けると、さすがに「帝王マイルス」です。たとえドラッグの海に溺れていようと決して演奏に妥協はありません。

妥協をしないことで有名なマイルス・デイヴィスにこんな逸話があります。それは1954年12月24日に、ピアノのセロニアス・モンクを含むクインテットを率いてプレスティッジ・レーベルで行ったレコーディングのことです。このクリスマス・イヴに行われたセッションで収録された演奏は、のちに「バグス・グルーヴ」(BAGS GROOVE)と「マイルス・デイヴィス&ザ・モダン・ジャズ・ジャイアンツ」という2枚のアルバムに残されています。

a0038167_15301080.jpg中でも2テイクが録音された「ザ・マン・アイ・ラヴ」という曲は、俗に「喧嘩セッション」と呼ばれているもので、今日までのジャズ史を飾るエピソードのひとつとして知られる演奏です。このエピソードとは次のようなものでした。

マイルス・デイヴィスはこの曲の吹き込みにあたって、モンクに自分がソロをとっている時にバックでピアノを弾かないように言ったというのです。プライドの高いモンクはそれに腹を立て、マイルスはソロを終えても演奏しようとしませんでした。実際にレコーディングでは、そんなモンクにマイルスがトランペットで、今度はお前が弾くのだと促す様子まで収録されています。マイルスとモンクの一触即発的な緊張感が、この時の演奏を一層スリリングなものにしたというのが伝えられているエピソードです。

さて話をブルーグラスに転じますと、ジャズのマイルス・デイヴィスにあたる人がビル・モンロウではなかったろうかと思われます。そんな彼に「喧嘩セッション」のようなエピソードがあったのでしょうか?
以前NINOさんのブログ(http://bgrassjp.exblog.jp/)で、ビル・モンロウとケニー・ベイカーの逸話がありましたが、ブルーグラス60年の歴史の中にも、もっともっとおもしろいエピソードがたくさんあるのかもしれませんね。

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by scoop8739 | 2005-06-26 15:27 | ブレイク・タイム