32 混沌の時代、1960年代後半

a0038167_1024779.jpg1960年代後半のアメリカでは、ベトナム戦争が激化する中でサンフランシスコの若者たちが戦争や人種差別に反対して自然への回帰を謳い、ドラッグによる精神や感性の解放を主張していました。彼らはヒッピーとかフラワー・チルドレンなどと呼ばれ、ドラッグをやりながら延々と即興演奏を続けるバンドや、ライト・ショーなどの幻想的な映像に快楽を求めました。1967年6月にサンフランシスコ郊外のリゾート地モンタレーで行われたポップ・フェスティバルには、ジェファーソン・エアプレイン、ポール・バターフィールド・ブルース・バンド、ママス&パパス、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーといったサイケデリック・サウンドを聴かせるバンドがもてはやされます。それまでの穏やかで軽快なサウンドを持つフォーク・ソングはすでに時代遅れとなっていました。

ブルーグラスの世界に目を転じますと、1960年代に入ってからナッシュビル・サウンドを取り入れてソフィスティケイトされたモダンなスタイルで活躍していたオズボーン・ブラザーズやジム&ジェシーのグループや、コマーシャルに向かっていたブルーグラス・バンドの多くは、1967年頃のフォーク衰退とともに再びオーセンティックな音と土の香りが漂うブルーグラスに戻ってきました。

アメリカ西海岸のブルーグラス・バンドの多くは、ケンタッキー・カーネルズの解散と共に、ディラーズの方向転換が示すようにカントリー・ロック・バンドへとスタイルを変えていきます。伝統の浅い西海岸のブルーグラス界は、あまりにもフォークに依存し過ぎていたためにフォークの衰退とともにまたたく間に寂れていったのでした。

そんな中ブルーグラス界に激震が走ります。1963年のテレビ番組「じゃじゃ馬億万長者」の主題歌「The Ballad Of Jed Clampett」のヒット以来、フォークやカントリーへの接近によって次々とベスト・セラー・アルバムを送り出していたコマーシャルなブルーグラスの急先鋒、レスター・フラットとアール・スクラッグスが1969年に音楽的見解の相違を理由として分裂してしまいます。レスターはアールを除く全員を引き連れてナッシュビル・グラスを立ち上げ、アールは息子たちとともにロック感覚の強いバンド、スクラッグス・レビューを結成したのです。

またワシントンD.C.を中心に活躍していたカントリー・ジェントルメンのリーダーであるジョン・ダフィーは、来日公演を前にして「飛行機に乗るのが怖い」という意味不明の理由で公演をキャンセルし、その責任を取って退団します。

しかし明るいニュースもありました。ビル・モンローが長年のブルーグラス音楽への偉大な貢献をたたえられスミソニアン・インスティテューションほか各地で表彰され、翌70年にCMAの「カントリー・ミュージックの殿堂」に名を連ねることになります。

この時代、多くのブルーグラス・バンドは再び南東部の地域音楽として伝統の中に回帰していったのですが、一部に例外とも言えるミュージシャンたちがいました。彼らは60年代半ば頃までにフォークやカントリーから吸収したモダンな感覚をブルーグラス音楽の中で処理しようと試みたのでした。
(次回につづく)

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by scoop8739 | 2004-09-08 10:22 | ブルーグラスの歴史
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